ターミナル法務とサナトロジー

 サナトロジー(死生学)は、尊厳死問題やターミナルケアなどを背景に、1970年代に現れた新しい学問領域で、死を見つめながらも、それを乗り越え、生を見つめなおすことをも目的とするものです。そんなサナトロジーに関する情報について、多くの方々と共有していきたいと思っております。

大阪・寝屋川の行政書士・マンション管理士・FPです。東京商工会議所主催ビジネス実務法務検定試験(R)1級・日商簿記1級・日心連心理学検定(R)特1級の3つの1級資格を保持する、おそらく日本で唯一のトリプル1級ホルダーの行政書士だと思います。多角的な視点から思考することができる総合的なサポーターを目指しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

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サナトロジー

トランスパーソナル心理学的死生学

  トランスパーソナル心理学とは、自己を超越した心理をとらえようとする心理学です。 

 一般の心理学では、人間の成長に関して、自我の確立、自己の実現の段階までを対象とする場合が多いのですが、

トランスパーソナル心理学はその先の個を越えた、他者や宇宙との同一性までも射程とするものです。

 現代心理学に、スピリチュアルティの要素を加味したものがトランスパーソナル心理学といえるかもしれません。

 トランスパーソナルの思想家も数多いるのですが、今回は、トランスパーソナルの代表的思想家である、ケン・ウィルバー(1949~)の、

「アートマン・プロジェクト」思想に基づいた内容を概観していきたいと思います。
 
 「アートマン・プロジェクト」思想は、現代発達心理学と東洋思想との統合を試みる思想で、

主に、誕生直後(「プレパーソナルな段階」:個性確立以前の段階)から

自我の確立、自己の実現の段階(「パーソナルな段階」:個性確立の段階)までは、

発達心理学・臨床心理学などの成果をもとに、

さらに「トランスパーソナルな段階」(個を超える段階)からは主に、

東洋思想(インド哲学、仏教哲学等)をもとに論を展開しています。

 では、以下で、「アートマン・プロジェクト」思想に基づく人間の発達の段階をみていきたいと思います。

① プレローマ段階
 
 プレローマとは、ユング派心理学者ノイマンの用語を用いたもので、「混沌状態」という意味を表し、新生児が、物質的世界に融合している状態を表します。

 外界と自己の区別がつかないために、空間も時間もない、ある意味、仏教でいう「空」の状態ともいえます。

 ただ、ウィルバーは、覚者が感じる「空」(アートマン・プロジェクト思想では、「アートマン」といいます。)は、

知性や霊性を含んだものであり、新生児が感じるプレローマにはそのようなものは含まないため、両者は区別する必要があると述べています。

② ウロボロス段階
 
 ウロボロスも、ユング心理学によく用いられる用語で、自身の尻尾を加えたヘビであり、神話に登場するものです。自己完結的で未分化の状態を表しています。

 幼児は母親、とりわけ母乳を得るための乳房とそれを吸う自身の口の周りを主に世界だと感じており、自他の区別はおぼろげにしかついていないからです。

③ テュポーン段階
 
 テュポーンも神話上のもので、半人半蛇の生き物です。文字通り、ヘビから人間になりかけている状態を表しています。

 幼児は、布団を噛むと痛くない、自分の指と噛むと痛いといったような経験をすることにより、自他の区別がつくようになり、身体自我が現れ、自身とそれ以外の物質的環境を区別するようになるとのことです。

④ メンバーシップの自己段階

 自身が生きる社会の言語を習得し、その言葉により、現象のつながりを認識することによって見えてくる世界を現実とみることを学び、それにより社会の一員として生きていくことができる能力を身につける段階です。

 動詞に時制が含まれる言葉によって、過去-現在-未来の区別もつくようになり、時間感覚や空間感覚もよりはっきりとしてくることになります。

 ただ、そうしてより明確になってくる時間感覚によって、過去を後悔し、未来を不安に思う感覚も芽生えてくることになります。

 母親の腕に抱かれていればよかった安楽の時期は過ぎ、緊張と孤独にさいなまれる世界へといざなわれることになります。

⑤ 心的・自我段階

 これまでのおぼろげな自我感覚とは異なり、より明確な「自我意識」が芽生えてくる段階です。

⑥ ケンタウロスの領域
 
 ケンタウロスも、ギリシア神話に登場する上半身は人間、下半身は馬の半人半獣の生き物で、上半身(意識)が、下半身(身体・無意識等)をコントロールし、あるいは両者が調和した心身一如的な段階です。

 マズロー等の人間性・実存心理学などでいう、「自己実現」等に相当するもので、ここまでは現代発達心理学の射程範囲内ということになり、これ以降は、東洋思想的な領域となってきます。

 なお、この段階までを「粗(グロス)領域」、

これ超えるこれ以降を、「微細(サトル)領域」・「元因(コーザル)領域」と、アートマンプロジェクト思想では呼びます。

 「微細(サトル)領域」・「元因(コーザル)領域」は、僧や聖職者などが修行して、あるいは偶発的に生きている間に経験する場合もあれば、死してその直後に体験する場合もあるとのことです。

⑦ 微細領域 
 
 心身を超えた領域で、下位微細と上位微細にわかれるとのことです。

 下位微細はさらに、星気体(アストラル)レベル、霊的(サイキック)レベルにわかれ、

星気体レベルでは、体外離脱や幽体旅行等と呼ばれる超常現象が起き、

霊的レベルでは、透視・予知等の超常現象が起きるとのことです。

 時空をも超越した状態となるようです。

 上位微細では、天使や仏、神々、諸霊が現れたり、宗教的直感を得たり、青・白・金色の光や目がくらむような輝きを見たりするような現象が起きるとのことです。

 中有(死と再生の間。日本仏教でいう死から四十九日の間)の過程を示した、

チベット仏教のニンマ派の経典「チベット死者の書」でも、同様の死後生観が記述されており(というよりも、アートマンプロジェクト思想が、「チベット死者の書」の記述を基礎にしたものだと思いますが)、

また生きながらにして、死後生の世界に入り、詳細にその様子を記述したエマヌエル・スウェーデンボルグ(1688-1772)の死後生観や、

各種の臨死体験報告などにも似ているところがあるものと思います。

⑧ 元因領域

 この領域も、上位領域と下位領域の二つに分かれます。

 統一性がよりいっそう進み、最終的に「統一性そのもの」へと至るとのことです。

 前述した上位微細では、天使や仏、神々、諸霊等が複数現れたわけですが、

このようなユングの言葉を借りると「元型的(先天的にある心の型、イメージでかつ全ての人が共通してもつもの)」な存在が、

下位元因領域では、その源である唯一かつ究極の「神」へと収斂され、

さらに自身もその神とそもそもは同一の存在であったことが明かされ、意識も、「光輝」たる神とのより一層高いレベルでの同一化を果たすとのことです。

 そして上位元因領域では、一切の形を超越し、形なき意識・限りなき光輝へと融合していくとのことです。

 ただ、「形なき意識・限りなき光輝」を見るものと見られるものという、二元性は残存しており、その点が最終段階のアートマンとの違いであるとのことです。

⑨ アートマン段階

 アートマン段階は、『般若心経』の「色即是空、空即是色」の世界となるとのことです。 
 
 個とは、海面を走る波であり、その幻想ともいえる波、うたかたの夢ともいえる波が、大海原(形なき意識・限りなき光輝)に溶け込み静まり、

波は無となり、ただ静かなる海だけがあるというイメージかもしれませんが、正確には、この世の言葉では表しづらい、形の無い純粋な目覚めの領域、「あるがままの真実=真如」の世界となります。

 ここに至り、アートマンプロジェクト思想でいう人間成長の全サイクルが完結するとのことです。

 西平直京都大学大学院教育学研究科教授の説に基づけば、

人は、自らのうちにアートマンがあることに気づかないまま、それを追い、それを求めて次から次へと、新しいプロジェクトを試みては、各段階には制約があるため失敗し、

ようやく次の段階へと進んでも満足せずに、究極のアートマンにめぐり合うまで、アートマンプロジェクトは繰り返されるとのことです。

 そして、求めても求めてもたどり着けなかったその境地は、死の直後にめぐり合うことになり、

このアートマンの段階に止まることができれば、それが仏教などでいう「解脱」、輪廻からの脱却となるわけですが、意識はこの状態に耐え切れず、多くは再び降下しはじめるとのことです。

 そしてまた輪廻する道を選び、新たな肉体へ宿っていくことになります。

 そうして誕生するとともに、自らこそがアートマンであることを忘却し、またプレローマ段階からはじめ、個を発達させながらも、個と対極にある究極のアートマンを追い求め、「アートマン・プロジェクト」を試み続けることになるといいます。 

 それが、ウィルバーのアートマンプロジェクト思想が説く、『人生の姿』とのことです。

 なお、前述しましたように、臨死時や死直後にトランスパーソナルな領域に入るだけでなく、

生きている間にこの領域に進み、超常現象やアートマン的なものとの合一体験をする場合もあります。

覚りを求めて瞑想、禅などを行った結果、そうなる場合もあれば、そのように積極的に求めたわけでもないのに自然とそうなる場合もあります。

 その必要性があるときに、自然と生じる現象なのかもしれません。

 脳には、頭頂葉と後頭葉の境界にある各回という部位があるのですが、これを刺激すると(ここでいう刺激とは実験装置を使って行うもので、当然日常的にできるものではありません。)体外離脱体験をすることがわかっています。

 脳は、体外離脱をするためのボタン(脳回路)を用意しているとのことです。

 実験装置で刺激を与えなくても、人口の3割ぐらいは、一生に一回程度ですが、自然に体外離脱を体験するともいわれています。

 なぜ、脳にこのような機能があるのかについて、日本の脳科学界のトップランナーである、池谷裕二東京大学大学院薬学系研究科教授は、

「他者の視点で、自分を見て、自己修正する、そういうことに関係する機能ではないか。」との説を挙げています。

 また、脳の言語野というところのすぐ傍に、宗教的な体験をする脳回路というものがあります。「神の回路」等と呼ばれる部位です。

(かしこい脳の使い方- interview with 池谷裕二 – 平成27年12月6日存在確認:上記より以下引用)
 
「宗教的な体験をする脳回路というのが、やっぱりあるんです。それは、左側の言語野のすぐ横です。そこを刺激すると神様が見えるんです。キリスト教の人だったら、キリストやマリアが見えたり、仏教徒だったら仏さんが見えたり。宗教を持っていない人でも、敬虔でおごそかな気持ちになる。そういう回路を人間の脳は用意しているので、宗教がどこにでもあるということを僕はなんとなく納得できます。」

(引用終わり)

 池谷教授によれば、上記のように神を感じるボタンが人間の脳の中にはあるということです。

 このボタンが押されると、脳が神の世界を見せるのか、それとも、神の世界にワープしてしまうのかいずれかなのかはわかりませんが、

シュタイナー思想的にいえば、

「本来、物質界を写すカメラである「脳」に、アストラル界や霊的(精神的)世界を写し取るオプション機能もついていて、その機能のスイッチを知らずして押してしまうことにより、こういう現象が起きるときがある。」

ということになるのかもしれません。

 なお、脳科学的には、なぜ脳にこのような機能があるのかは解明されていません。

 ただ、そういう回路があるということだけはわかっているようです。

  いずれにしても、このように生きている間にも、超常現象や宇宙との合一体験をする場合

(これをトランスパーソナル心理学では、「スピリチュアル・イマージェンス(スピリチュアリティの突如の発現)」と呼びます。」)

があるわけですが、

求道者のようにそれを自ら求めたものはまだしも、自然と急にそのような体験をしてしまうと戸惑ってしまうことでしょう。

  スピリチュアル・イマージェンスにより、危機感を持ったり混乱したりすることを、スピリチュアル・イマージェンシーといいます。

 人に言えば、笑われたり、家族に言えば、メンタルヘルス不調と疑われたりして、無理矢理に治療を受けさせられたケースも多々あるようで、また誰にも言わず、体験を胸にしまったままの方も多々おられるようです。

 ターミナル期の患者や死別体験をした人達も、スピリチュアル・イマージェンスを得たり、それにより、スピリチュアル・イマージェンシーとなったりする場合があるのではないかと思います。
 
 寄り添う人や援助者は、スピリチュアル・イマージェンス体験をした人達に傷を与えないよう、話をありのままに受け止めることが肝要かもしれません。

 なお、ターミナル期でもなく、死別したわけでもなく、とりわけ何も無いのに、スピリチュアル・イマージェンス体験を得る人もいますが、その場合も、話をありのままに受け止める人の存在が必要となるものと思われます。

 1994年に改訂された、アメリカ精神医学会の新診断基準であるDSM-Ⅳでは、スピリチュアル・イマージェンシーを、メンタルヘルス不調とは区別して記載するようになっています。

 ただ、メンタルヘルス不調と誤診されるスピリチュアル・イマージェンシーもあれば、スピリチュアル・イマージェンシーを伴ったメンタルヘルス不調もあるので、慎重な態度は必要とされます。

 トランスパーソナル心理学の生みの親の一人ともいえるスタニスラフ・グロフ(1931~)によれば、

「スピリチュアル・イマージェンスを内なる体験と認識し、外の現実での体験と混同していない。」

という点が、スピリチュアル・イマージェンシーであるか否かの重要な基準になるとのことです。

 スピリチュアル・イマージェンスの世界と、日常の世界との区別がしっかりとつき、地に足がついていて生きていれば(これをグラウンディングあるいはグラウディングといいます。)よいということかもしれません。

 なんらかの理由により、生きながらにしてスピリチュアル・イマージェンスの世界に誘われた場合、そこから、アートマンプロジェクト思想でいう下降の道を降りていき、日常の世界に舞い戻ることも、心の成熟に必要なことなのかもしれません。

 求道の道にあえて入り、自らスピリチュアル・イマージェンスの世界を見る場合もありますが、その高揚感から、自分を特別視し、他人を蔑視し、排除するというのも心のバランスを欠くものと思われ、この場合もやはり、グラウンディングの観点が必要になってくるものと思われます。

 アートマンプロジェクト思想でいうアートマンへの向かう道を上昇の道、色(日常世界)即是空の道とすれば、そこから日常に戻る道は、下降の道、空即是色の道といえるものと思われます。

 日常世界は、空の完全な顕現であり、ゆえに全て平等に大切に扱われなければならないとウィルバーはいいます。これを知る下降の道は、肯定の道ともいえることでしょう。

 そうして、色即是空を知り、そこから肯定の道を降りてきた人は、

街を歩く人々の姿、小雨降る寒い日、よく晴れた青空と飛ぶ鳥、公園で遊ぶ子供達、ベンチに座り、コーヒーを飲みながら新聞を読む初老の人、

こんな見慣れたなにげない風景も全て、空の顕現(空即是色)であることも知り、

ささいな日常にも慈しみの気持ちを頂き、魂を込めて生きていくことができるといいます。

 日本におけるトランスパーソナル心理学の第一人者、諸富祥彦明治大学文学部教授によれば、そのように日常を生きることが、心の成長、魂の成熟にとって何より大切な意味を持つとのことです。

 禅宗には、禅の悟りまでの過程を、牛をテーマとし、十枚の絵で表した『十牛図』というものがあります。

 以下でいう牛とは、人の心あるいは悟りを指し、牛を探す童子は、修行者だとされます。

①「尋牛(じんぎゅう)」 - 牛を探そうと志すこと。

 悟りがどこにあるか見当もつかず途方にくれる図となっています。

②「見跡(けんせき)」 - 牛の足跡を見つけること。足跡とは、経典、古人の公案などを意味します。

③「見牛(けんぎゅう)」 - 牛の姿をわずかにかいまみること。

 優れた師と出会い「悟り」がわずかながら見えた状態。

④「得牛(とくぎゅう)」 - 力まかせに牛をつまえようとすること。

 悟りの実体をなんとか得たが、まだ自分のものとできていない状態。

⑤「牧牛(ぼくぎゅう)」- 牛を飼いならすこと。

 悟りを自分のものとするための修行を行う状態。

⑥「騎牛帰家(きぎゅうきか)」 - 牛の背中に乗って家に帰ろうとすること。

 悟りを得て、日常に戻ろうとする状態。

⑦「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」 - 家に戻って、牛のことも忘れてしまうこと。

 修行者の中にこそ悟りはあり、消えたのではないということに気づく状態。

⑧「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」 - 全てが無に帰一し、忘れ去られること。

 悟りを得た修行者自身も、特別な存在などではないという、自然な本来の姿に気づく状態。

⑨「返本還源(へんぽんげんげん)」 - 原初的な、自然美が顕現すること。

 悟りは、このような自然の中にあることを示しています。

⑩「入鄽垂手(にってんすいしゅ) 」-

 最初は、童子であった修行者が、布袋和尚の姿となり、街へ出て、他の童子と遊ぶ姿を示し、他の人を導くことを示しています。

 この『十牛図』は一見すると何を意味しているのかわからないものだと思われますが、

本稿をお読み頂ければ、『十牛図』は、アートマンプロジェト思想と類似的なことを意味しているというのがお分かりいただけるのではないかと思います。

 なお、普通の平凡な生活者の中に、意識の最高レベルを見た、発達心理学者で精神分析家であったエリク・H・エリクソンの考えのように、

スピリチュアル・イマージェンスを体験しなくても、日常の生活を通じて、全ての日常に慈しみの気持ちを頂き、魂を込めて生きていくこともできるものとも思います。

 よって、全ての人がスピリチュアル・イマージェンスを得ようとそればかりに積極的に集中する必要もないことでしょう。

 とりわけ、10歳代~20歳台の若い人が日常をおろそかにし、スピリチュアル・イマージェンスのほうにばかり目を向けるということになると、

それこそグラウンディングの観点が欠けてしまうことになるのではないかとも思われます。

参考文献)
『魂のライフスタイル』西平直著 東京大学出版社 1997年
『トランスパーソナル心理学』岡野守也著 青土社 2000年
『トランスパーソナル心理学入門』諸富祥彦著 講談社現代新書 1999年
『ブルーバックス 進化しすぎた脳』池谷裕二著 講談社 2007年
(ウィキペディア:十牛図 平成27年12月6日存在確認)

行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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ルドルフ・シュタイナーの死生学

 今回は、現在のところ最も権威のある死生学の全集ともいえる、東京大学出版会から発刊されている『死生学』の第三巻、『ライフサイクルと死』にも取り上げられている、ルドルフ・シュタイナーの死生学について概観していきたいと思います。

 ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、オーストリア帝国(現在のクロアチア)出身の、哲学博士・神秘思想家・教育家で、近代人智学(アントロポゾフィー)の創始者です。

 シュタイナーの人間観に基づき、独自の教育を行う「シュタイナー教育」は、日本でも行われていて、2013年に日本シュタイナー学校協会が設立され、

これに学校法人シュタイナー学園(神奈川県相模原市緑区)や、東京賢治の学校自由ヴァルドルフシューレ(鳥山敏子代表)などの、

全国の学校法人及びフリースクールを含めた全日制7校が加盟しています。

 シュタイナー教育を行う学校は、世界中に900校以上あるといわれています。俳優・モデルの斎藤工さんもシュタイナー教育を行う学校に通っていたとのことです。

 シュタイナーが、その特異な神秘的能力によって洞察し、それを哲学者としての明晰な論理能力によってまとめ上げた死生観を理解する上において、まずは、次のような特殊な専門用語を確認する必要があります。

 最初に『物質体』ですが、これは物質としての肉体です。

 次に、「有機体をひとまとまりに保つ生命の力」である『エーテル体』というものがあり、これが物質体から離れてしまうと物質体は崩壊するとシュタイナーはいいます。

 つまり、エーテル体が、生命機能を担うことになりますが、ただこのエーテル体には意識はないとのことです。

 このエーテル体は、記憶も担うようで、脳をカメラだとすると、エーテル体はフィルムに相当するとのことです。

 次に、感情や欲望といったような面を担う意識を持つ力のことを、『アストラル体』といい、これが、エーテル体にくまなく浸透することにより、エーテル体が覚醒するとのことです。

 なお、植物には、エーテル体はあっても、アストラル体はなく、動物にはアストラル体があるとのことです。

 次に、霊的実体である『自我』というものがあります。

 自我は、物質体・エーテル体・アストラル体に働きかけ、記憶を可能にするといいます。

 アストラル体だけだと、感情や欲望はあるけれども、それをすぐに忘れてしまって持続することはできないとのことです。

  この自我による、記憶を認識する能力によって、時間的連続性を持った自覚が成り立つとのことです。

 エーテル体は、事象を記憶として、フィルムのように記録しますが、

例えば、アニメーションの原画や、学生などが授業中、暇つぶしに書いたりするパラパラマンガなども、それそのものは、1枚の絵がたくさんあるだけで、これを映像とするためには、連続的に流しそして、それを見る主体が必要となります。

  このたとえでいうと、エーテル体は、アニメーションの原画、パラパラマンガの一枚一枚が描かれている紙であり、それを連続させ、映像として見る意識を持つものが、自我といえるかもしれません。

  自我は、過去の記憶と現在を繋げ合わせ、過去から現在の自己の歴史の連続性を想起させ、自分自身の歴史というストーリーを紡ぎだす機能を担っているものと思われます。

 なお、人間は自我を持ちますが動物は、物質体・エーテル体・アストラル体はあっても自我は持たないとシュタイナーはいいます。

 (動物の自我は、後述するアストラル界にあって、物質界にはなく、その種の共通の自我(グループ魂)が、アストラル界にあるとのことです。なお、人間にも民族・宗族等に共通のグループ魂があるとのことです。)

 人間が眠ると、アストラル体・自我が離れ、物質体・エーテル体だけとなるそうで、抜け出たアストラル体は、物質界から解き放たれ、物質界よりも遥かに広大な「アストラル界」にいるとされています。

 物質としての人間は、地球に属しているけれども、アストラル体は、地球以外の宇宙(星の世界:アストラルとはそもそも「星の」「星のような」「星の世界」という意味です。)に属しており、

人間は、睡眠中そこに戻るとのことです。

 この時、アストラル体がエーテル体に働きかけることにより、夢を見るそうです。

 夢見のときのアストラル体は、物質体の感覚器官と結びついていないため、外的環境との正しい関係を持つことができないので、夢のストーリーは現実的でなくなるとのことです。
 
 さて、用語の整理ができたところで、次に、シュタイナーの死生観を見ていきたいと思います。

 人間が死ぬと、物質体から、エーテル体・アストラル体・自我が離れていきます。

 つまり、シュタイナーの死生観からすると、物質体から、エーテル体・アストラル体・自我が離れることを、死というということになります。

 エーテル体・アストラル体・自我だけとなっても、エーテル体はしばらく生き続けます。

 この状態から、エーテル体・アストラル体・自我が再び、物質体に戻る場合があるとのことですが、

一時的にエーテル体・アストラル体・自我が、物質体から離れていた状態のときの記憶が、「臨死体験」だとシュタイナーの死生観では説明されます。

 エーテル体・アストラル体・自我だけになって数日を過ごすといいます。

  その期間は、生きているときに眠らずに起きていられる時間だとのことです。

 なぜなら、この後、エーテル体は分離するのですが、そうすると、アストラル体・自我だけになって前述した睡眠状態と類似した状態となります。

 ですが、長く起きていられる人は、睡眠状態になかなかならないわけで、言い換えるとエーテル体がなかなか離れようとしないということになります。

  そういう癖があるので、長く起きていることができる人は、この状態が長く続くとのことです。

 逆に寝つきがいい人はアストラル体・自我から、エーテル体が離れやすい特質があるので、この状態はすぐに終わるとのことです。

 そしてこの時期、記憶のフィルムといっていいエーテル体に刻み込まれた一生の様子が、夢も含めてビジョン(映像)として現れるとのことです。

 この現象が、死と単なる睡眠との違いとなり、この違いがなければ、夢ではないということに気がつかないとのことです。

 この時期が過ぎると、エーテル体は離れていき、霊的大宇宙の中に溶け込んでいくとのことです。

 その際、自分の一生が大宇宙に広がっていき、その壮厳な光景を眺め、自我は厳粛さを感じ、さらに高次な自我である霊我(波が収まった静かな海のような澄んだ意識がずっと続くような状態とのことです。)を生じさせる兆しになるとのことです。

 次に、自我が、離れていったエーテル体のエッセンス(結実)を受け取り、アストラル体・自我の二重構造になって、アストラル界を進んで行くことになります。

 そしてこのとき、一生の記憶を、その3倍のスピードで見ることとなり、それを現実として体験することになるといいます。

 ただ、時系列が逆になり、死の直後から遡り誕生まで逆戻しで見ていくことになるようです。

 しかも、時系列的に逆になるだけでなく、体験内容も逆になるようで、他人を傷つけた経験などは、自分の痛みとして経験するとのことです。

 ところが、実はこのときはじめてその痛みを体験しているのではなく、生存中から物質界に由来する欲望はすでに自身を傷つけていたわけですが、それに気づかなかっただけで、この逆戻体験時に明確になるとのことです。

 アストラル界は、物質界を裏返したような世界なので、このようなことになるとのことです。

 この逆戻が出生時までに至ると全ての欲望が浄化の火によって焼き尽くされ、アストラル体がエッセンスだけを残し、消失するといいます。

 ここまでの期間を「浄化の期間」といい、個人差はあるようですが、おおよそ生きていた期間の1/3の時間がかかるとのことです。

 なぜ、1/3なのかというと、前述しましたように、アストラル体は睡眠中に、「アストラル界」にいるわけですが、

「浄化の期間」も同様、アストラル体は「アストラル界」にいて、睡眠中と類似した状態にあり、

また人間は人生の1/3を睡眠するわけですが、これらのことが関係して、「浄化の期間」は生きていた期間の1/3の時間がかかるとのことです。

 ここまで来ると、自我だけとなり、自我内から、「霊的(精神的)世界」が現れ、自我がその内部に持っていた純粋な世界を体験するといいます。

 この時、高次の生命霊というものが、霊的世界の模範像として現れるとのことです。

 これと、宇宙に溶け込んだエーテル体により、再度ビジョンとして現れる過去の人生とを比較し、自分の意思も関与し、来世の人間像が作り出されるとのことです。

 過去の人生との比較は、より完全な人間に向かっていくためのものだといいいます。

 このような霊的世界での浄らかな期間はとても長く続くことになります。

 この時期を経過すると、自我は再びアストラル体を求め、またアストラル体はエーテル体を求め、物質体の内部に宿ることとなるとのことです。

 この際、死の際のフラッシュバックとは逆に、これからの人生を一瞬かいま見るのことです。

 そして、前世の記憶を喪失した新しい人生がはじまるとのことです。

 このようなシュタイナーがいうところの、「東洋の知恵にならい、カルマと呼ばれる」運命的法則を伴って、再び肉体に宿ることになるとのことです。

  ただ、その運命的法則は自分で選び取ったものであり、誰かに裁かれたりした結果ではないというところに、シュタイナー思想の特徴があるものと思われます。

 西平直京都大学大学院教育学研究科教授によれば、このようなシュタイナーの死生観を鑑みれば、死後生は、現世に来る前の状態に戻ることであり、恐れるものではなく、

かすかに憶えのある、あの素晴らしい状態に還ることであって、より自然な状態に還ることのように思えてくるとのことです。

 なお、シュタイナーは誕生を、「母親の物質的な殻からの脱皮」といいます。

 ここでいう脱皮とは、物質体が殻から脱皮することを指すわけですが、同様にエーテル体・アストラル体・自我も最初は殻につつまれており、その後7年ごとに、それぞれが脱皮していくとのことです。

 最初の7年は、物質体の成長のために集中するため、エーテル体・アストラル体・自我は殻に包まれたままなのですが、

7歳ごろになると、エーテル体が殻から脱皮し、エーテル体の成長に集中することになります。

 そして、次の7年後、すなわち思春期となった12歳~16歳ごろに、今度は、アストラル体が殻から脱皮し、その成長に集中することとなります。 
 
 それからまた、次の7年後、20歳代に入った頃に、ようやく自我が殻から脱皮し、全ての構成要素が花開き、成人となるとのことです。

 なお、シュタイナー教育は、こういう思想を基礎としてプログラムされているとのことです。

 例えば、思春期前のエーテル体の成長に集中すべきときに、自我の確立を促すようなことをしてしまうと、自我の殻からの脱皮が時期尚早となってしまうため、適切な時期の脱皮を促すよう、教育プログラムを組む必要があるとのことです。

  シュタイナーは、現世のみならず死後生、来世をも見据えた長いスパンでライフサイクルを見る、

近代的な神話ともいえるべき、非常に壮大な思想を展開しています。

 しかし、その思想を現世から離れた死後生や来世だけに焦点を当てるようなことはせずに、

現世でも活かす、現世から活かす、現世を離れたところばかりに焦点を当てるのではなく、

(現世を重視しない志向性は、各種のリスクを生むことになるものと思われます。

特に自我がまだ確立されていないような、あるいは社会において泥にまみれながら一定の地位を確保することに尽力すべき、

児童、10歳代~20歳代等の若い人が、そのような志向性に没頭しすぎると、様々な問題が生じる可能性があるものと思われます。)

現世もおろそかにせず、現世も重視する、現世も大事にするという面にも焦点を当て、

教育・芸術(オイリュトミー等)・医学(アントロポゾフィー医療)・農業(バイオダイナミック農法:ドイツ・スイスなどで普及)等にも取り入れようとし、

シュタイナー教育等が特定分野においては、社会的にも受け入れられているという、稀有な近代的神秘思想家であったといえます。

参考文献)
(『人智学関係 ルードルフ・シュタイナー関係』    平成27年12月3日存在確認)
(『シュタイナーの世界 7 転生』 平成27年12月3日存在確認)
(『アントロポゾフィー医療』 医療法人社団山本記念会 すみれが丘ひだまりクリニック 平成27年12月3日存在確認)
(日本アントロポゾフィー医学のための医師会平成27年12月3日存在確認 )
(アントロポゾフィー看護を学ぶ看護職の会 平成27年12月3日存在確認 )
(『シュタイナー教育Q&A』 学校法人シュタイナー学園)
『シュタイナー入門』 西平直著 講談社現代新書 1999年
『死生学3 ライフサイクルと死』 武川正吾・西平直 編 東京大学出版会 2008年

行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

Blog:http://sasakihoumukaikei.blog.jp/(大阪・寝屋川:佐々木行政書士・マンション管理士事務所ブログ)
 
対応可能地域-大阪府中部・北部:寝屋川市・門真市・守口市・大東市・四條畷市(四条畷市)・東大阪市・大阪市・枚方市・交野市(これ以外の地域も対応可能な場合があります。ご相談くださいませ。)

業務依頼・講演、講義、遺言・相続・終活、死生学、デス・エデュケーション、グリーフワーク、メンタルヘルスケア、管理職、士業者のためのカウンセリング技法等の出張教室、研修、執筆依頼・取材等のお問い合わせは、E-MAIL fwkt0473@mb.infoweb.ne.jp まで
 

西洋哲学的サナトロジー

 プラトン(紀元前427-347)は、死とは肉体と霊魂が分離することであり、

肉体は消滅しても霊魂は死なず不死の存在となり、

逆に死により、真の実在に達することができるため、

死は忌みべきことではなくむしろ喜ばしいものだというような死生観を論じています。

 デカルト(1596-1650)は、肉体は死ぬが、考える主体である精神は死なないと述べています。

 カント(1724-1804)は、まず「人間は、道徳的法則の命令により、完全なものとなることが義務づけられている。」とします。

 しかし、道徳性の完成は、現世だけの人生では不可能であり、

それは理念として、無限の進行のうちにのみ見出され得、

不完全である被造物たる人間には、完全性に向かって永久に進むことのみが許されており、

完全性への過程において、霊魂として来世まで存続することを要求するといいます。

 これを「霊魂不滅の要請」といいますが、このように、カントは自らの哲学的学説上の必然的な要請として、魂は不死であるとしています。

 論理からだけではなく、瞑想体験や神秘体験等からも死生観を導き出した、仏教の僧やその他の宗教の聖職者、神秘家等とは異なり、

デカルトやカント、後述するエピクロス、ホーキング氏などは、純粋に哲学的な論理からのみ、自身の論理の結論を導きだしたものだと思われます。

 ゲーテ(1749-1832)は、

「なにものも在るのでなく、なにものも成ったのでなく、すべては、つねに成りつつある、変化の永久の流れの内には、なんらの静止もない。」と述べ、

不断に活動し、変化し、しかもその内にあって自己をつねに維持し、

持続せしめ得る程度に応じて、存在はより完全であると考えました。

 ゲーテの説では、完全性を目指す潜在力が人間にはあり、

またその力は、現実に完全性の実現を目指して作用し、

そしてそれは死を超えて、永久の流れのうちに存在するとのことです。

 またゲーテは、

「死を想うと心が全く穏やになる。なぜなら、私たちの霊魂は不滅であると知っているからだ。

太陽は日没するが、ただそれは、人間の目にはそう映るだけで、実は没せず、人間の見えないところで輝き続けている。

生命もこれと同じことで、死によって没したようかのように見えて、実は見えないところで輝き続けている。」

と霊魂の不滅をこのようなたとえで述べています。

 日本におけるサナトロジーのパイオニアで、哲学者であるアルフォンス・デーケン上智大学名誉教授によれば、

現世と来世は、序曲とそれに続くオペラのような密接な関係でつながれており、

永遠の生命は、現世からすでに始まっていて、死は終末ではなく、

神の無限の愛に包まれる、新しい生命の始まりであるという、

キリスト教の教えに基づくこのような希望が、クリスチャンの信仰の根底を支えているとのことです。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」

(『ヨハネによる福音書』第11章25~26節 『口語 新約聖書』日本聖書協会1954年より引用)

 アルフォンス・デーケン名誉教授によれば、このイエスの言葉が、臨終を迎えるクリスチャンにとって最も慰めに満ちた言葉となるであろうとのことです。

 人間には、この一生で使いきれないほどの潜在能力があり、

この創造的な無限の能力を発見し、自己実現を達成し、無限の成長をすることが、人生の最大の課題であり、

この無限の能力を用い、無限の成長をするためには、命も無限でなければならず、その過程は当然に死後にも及ぶものであるとアルフォンス・デーケン名誉教授はいいます。

 ゆえに、アルフォンス・デーケン名誉教授によれば、死後の生命を信じるということは、今現在の人生に意義を見つけることにもなり、

このことを指してゲーテは、「来世に希望を持たない人は、すでに現世で死んでいるようなものだ。」とも述べたとのことです。

 もちろん、アテネの快楽主義的哲学者で唯物論者であるエピクロス(紀元前341〜270)のように、死後生を認めない哲学者もおります。

 エピクロスは、死に関して、「我々が、現に生きている間は、死は存在せず、また、現に死が存在するときは、我々はもはや無い。」といい、ゆえに「死は、我々にとっては無関係である。」と述べています。

 エピクロスの哲学はここから発し、ゆえに無関係の死を不安に思う必要はなく、

生きているうちに快楽、といっても、欲望のままに生きるという意味での快楽ではなく、それをコントロールして人生を送ることに精神的な快楽があり、

このような精神的快楽を追求すべきだとの快楽主義を提唱しています。

 また、哲学者だけではなく、科学者の中にも、理論物理学者スティーヴン・ホーキング氏のように「人間の脳はコンピュータであり、そのコンピュータが壊れた場合、すなわち死の後に、天国も地獄も無い。」と死後生を認めない学者ももちろんいます。

 死後生があるか否かという問いに対する、「客観的な正解」は、科学的な検証ができない以上は、答えがないと言わざるを得ないものと思います。

 死後生は、そんな確認のしようがないものだけれども、しかし人それぞれが納得できる死生観を探し出しそれを心に抱き、それにより心が平穏になるであればそれが望ましいのではないかと思われます。

参考文献)
(『カントの最高善における道徳性と幸福』 藤田昇吾著 大阪教育大学紀要 1986年)
(『ゲーテに於ける自然と歴史』 三木清著)
『人は死んだらどうなるのか?』 斉藤弘子著 言視舎 2015年
『新版 死とどう向き合うか』アルフォンス・デーケン著 NHK出版 第5刷 2015年

行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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儒教思想的サナトロジー

  日本の習俗や日本仏教にも溶け込み、日本人の考え方や、のみならず社会制度までにも少なからず影響を与え、また法事等の儀式にも大きな影響を与えている儒教思想的な死生観を、今回はみてみたいと思います。

 なお、本稿は、社会学者小室直樹氏(1932-2010)や、東京工業大学名誉教授橋爪大三郎氏等の学説をベースにした、宗教社会学的見地からの考察であることを予めご了承ください。

 儒教及び宗教学としての儒教学は、様々な宗派や学派があり、思想的に非常に多様で、各宗派や各学説によって死生観や他の概念の捉え方も様々で、下記に述べるような死生観等が唯一の捉え方ではないということもあらかじめご了承頂ければと存じます。

 日本では、単なる道徳論と考えられている場合も少なくないと思われる儒教にも、死生観や魂の救済についての思想があります。

 その内容は、以下のようなものです。

 儒教では、人の魂には、魂(こん:精神をつかさどる天の陽気からの魂)と、

魄(はく:肉体をつかさどる地の陰気からの魂)とがあり、

人が亡くなると、魂は天に昇って神となり、魄は地に潜るとされています。

 遺族は、魂を祀る為に、「位牌」を廟に祀り、魄を地に返すために土葬しなければならないと儒教では考えます。

 なお、死者は、死後も生前と同じように生活すると、儒教では考えられているようでした。

 人が亡くなった場合の、儒教の祭祀の手順は次のようになります。

 まず人が亡くなった場合、声をあげて悲しみ泣き、招魂を行い、さらに、屋根に登って北に向かい、死者の名前を大声で呼び、天に帰る魂を呼び戻そうとします。

 その後、さらに詳細な手続があって、悲しみの舞踏を舞ったり、泣き女(魂呼ばいや悪霊払いを兼ねた、泣くことによって悲しみを表すことを、生業とする儀式師)を加えたりします。

 そして、その後も細々とした祭祀があるのですが、前述したように葬儀の終盤には土葬を行うということになります。

 ちなみに、日本は、儒教よりも仏教の影響のほうが強かったため儒教葬は、殆ど行なわれませんでしたが、朱子学に傾倒した水戸光圀は、儒教葬を奨励したと言われています。

 そもそも、儒教教団とは、このような原始儒教に基づく儀式を、人々に教えるために生まれたものだといわれています。

 なお、弔いのための祭祀はその後も続きます。

 なぜなら、子孫が祭祀を行えば、魂と魄が天地から戻ってきて復活すると考えられているからです。

 このように復活するためには、子孫が末永き保たれ、かつ子孫が先祖を敬ってくれることが必要です。

 子孫が長く保たれるためには、まず第一に政情不安があってはなりません。

 ゆえに、儒教においては「良い政治を求めること」が教義となります。

 「良い政治が必要である」と考える非常に珍しいといえば、珍しい教義と言えることでしょう。

 次に、子孫が先祖を敬ってくれないと祭祀が行われませんので、祖先崇拝も教義となるわけです。

 祖先崇拝とは、まず祖先は、とにかく偉いと考え、またゆえに偉い祖先から出た自分達も偉くて正しいと考えることです。

 加えて、その偉い祖先から出た、親族一同も偉いと考え、親族間の団結を固めるわけです。

 大陸は、平原が続くところです。

 いつ異民族が襲ってきて土地を追われるかわからないなかで、

不動産やその所有権などを頼れる財産と考えることもできず、

貴金属も奪われればおしまい、緊急時に役立つものは親族しかないということから、

魂の共済とともに、親族間の団結を固めるためのこのような考え方が出てきたものと思われます。

 儒教の祖先崇拝は、このような事情から生じたものですので、日本で考えられるよりも遥かに強固で厳格です。

 「親族間の団結」と前述しましたが、ここでいう親族とは、通常「宗族」のことを指します。

 これは、同じ姓を名乗る祖先崇拝を行う、数百から数万人規模の、父系血縁集団のことで、「氏族」といったほうがわかりやすいかもしれません。

 日本人が考えるような、せいぜい6親等内の、少人数の親戚とはスケールが全く違うものです。

 儒教の影響の強い地域では、姓の数が日本に比べて圧倒的に少ないのも、このような考え方によるものかもしれません。

 祖先崇拝は一族をまとめ、一族が基盤である農業の生産性をあげることにも寄与しました。

 そして、これほどまでに、血縁関係が強固であると、社会は安定します。

 過去に確定した、祖先の時代の人間関係をもとに、ほっておけば不安定で不確実になる、現在の人間関係を確定するので安定するわけです。

 また、このような考え方は伝統主義であり、この伝統主義から派生して世襲主義が生まれてきます。

 それゆえ、あらゆる地位は世襲されることとなり、子は、親の職業を継げるので、自分で自分の職業を開拓する必要がなくなるため、社会が安定するわけです。

 しかし、それでは社会が固定化してしまいます。

 とりわけ政治の世界においては、支配者の宗族でないと官僚になれないとなって、公平性を欠き、それが原因となって、政治の乱れを呼び寄せる可能性があります。

 そこで、官僚の役職と宗族を切り離すために、科挙制度や宦官制度が生まれてくることになります。

 科挙制度は、試験によってエリートを選抜し、官僚機構を構築する制度ですが、エリートは思い上がって勝手なことをし、政治が腐敗する可能性があります。

 そこで、エリート官僚に対する、カウンターバランス(対抗勢力、均衡勢力)システムとして、皇帝の私的補佐をする役目である、

去勢された宦官という役職を置き、科挙エリートと宦官が、相互にチェック・アンド・バランシズをするというシステムができたわけです。

 宦官は、論理的思考に優れているわけではないのですが、ペーパーテストだけが、よくできる官僚が、苦手な分野、

経験と直感が役立つ分野において、力を発揮しました。

 このように、流動性と固定性を上手く組み合わせた制度になっており、とりわけ科挙制度があるので、頭脳明晰でさえあれば、

どんな地位の出身者であっても、官僚になれる道が開けており、

不公平感を解消するためにも役立つシステムではあるのですが、

万能のシステムはないのが世の常で、この科挙制度にも欠陥がありました。  

 人はやる気があって精進さえすれば、誰でも学問などはできますので、

学問をすれば、甘い蜜が吸えるとなれば(昔の大陸の官僚は非常に甘い蜜が吸えたのでした・・。)、

誰しもがその道を目指すようになります。

 なので、勉強できる環境がある者が、大勢官僚を目指し、都市にやってくることになります。

 そうやって都市に人口が集中し、そして彼らは、農産物の生産に携わりませんから、農村の税負担によって、増殖する都市の生活が支えられることになります。

  また、誰でも官僚を目指せるといえども、やはり有利なのは官僚の子供達でしょう。

 勉学は、「金」と「時間」がないとできないもので、日々の仕事に追われ、時間がない人にとっては、勉学は物理的にできないということになります。

 その点、官僚の子供達は、親の財力もあり、また勉学に打ち込める時間、暇も十分あり、勉強できる環境が整っています。

 一方、農村の子息は、不利になり、官僚にはなれない、税負担は増えるということで、

しまいには、農村の人達が怒って暴動が起こり、

それが発端となって、王朝は打倒されるということが、300年に一度ぐらい起こり、それが歴史の中で繰り返されるということになります。

  なお、王朝が変わる場合、新たな王朝の正統性の根拠が必要となります。

  そのために、「天」という思想が使われます。

 祖先崇拝が、根底にある社会では、「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」となってしまうのですが、そうなると、新たな王朝の正統性がなくなっていまいます。

 そこで、まず各宗族の祖先をずっと遡ると、天帝にたどり着くと儒教では考えます。

 天帝は天のことで、絶対的支配者です。

 皇帝は、天の天命を受け、天子となり、また絶対的な天の天命を受けて支配するわけですから、

その支配は正しい、天子の行う政治も絶対的であるという論理のもとに君臨し、

「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」というロジックをかわすわけです。

 これなら、祖先が皇帝でないものも皇帝となれるわけです。

 この天の思想から、「易姓革命(えきせいかくめい)」、「湯武放伐論(とうぶほうばつろん)」

(「徳を失い、天が見切りをつけ、天命を失った王朝は、倒される」というような思想)

がでてくることになります。 

  ちなみに、日本の江戸時代の儒者山崎闇斎や山鹿素行などは、この湯武放伐論を、

「結局は臣が帝を倒すことを容認する屁理屈に過ぎない。このような理屈を認めていたから、中国ではコロコロと王朝が代わった。そんなことでは中華とは言えない。真の中華は万世一系の日本である。」とし、

このような思想が、尊王攘夷論を生じせしめ、江戸幕府を打倒し、明治維新へと向かう源流となっていきました。

 儒教の重要な考え方の1つを否定することで、新たな局面を切り開こうとしたわけですが、そのためには儒教をかなり勉強しなければなりません。

 しかし、いつの時代でも、世襲の安定した良い地位にあるものはあまり勉強しないものです。(^^;

 勉強などしなくても、よい血筋と遊んで暮らせる財産があるということをプライドとすることできますので。

 なので、江戸時代に、儒教を熱心に勉強した者は、

下級武士や町人、農村上層部の人達の、

いわゆる「マージナルマン(境界人:どの集団にも完全に所属できず、各集団にまたがって境界的に存在する人達)」だったといわれています。

 また、このような下級武士を中心とするマージナルマン達が、明治維新を担ったということも、ご承知のところだと思います。

 これらのマージナルマン達は、反面教師的にはとはいえ、儒教を熱心に学んだため、儒教の中核の考え方である

「学問をすれば誰でも出世ができる。統治者ともなれる。」という思想が、無意識的に腑に落ちていたのでしょう。

 それも、明治維新の原動力となったものと思われます。

 ところで、原始儒教は、前述したように魂の救済的な宗教らしいことを述べていたわけですが、

中興の祖というか、むしろ実質的な儒教の創始者である孔子は、

「怪力乱神を語らず(あの世のことは語りません・・。)」と述べ、

現実的な、この世のことしか興味がなかったようです。

 そして、その思想の中核が、「政治万能主義」、

「徳知主義(支配者の倫理性と努力が安定した国家運営を招き、それによりよき政治ができ、よき政治ができれば万事は解決する。)」と、

家族や血のつながり、祖先崇拝の重視です。

 儒教の基本的徳目は、五倫五常です。

 五倫とは、

父子の親(父子は自然的な親愛の情で結びついている。)、

君臣の義(主君と臣は道徳・倫理に基づき結びついている。)、

夫婦の別(夫婦は各々役割が異なる。)、

長幼の序(年長者を敬わなければならない。)、

朋友の信(友はお互い信頼しあわなければならない。)

のことで、

五常は、

仁(人を思いやること)

義(すべきことを利や欲に捉われずにすべきこと)

礼(上下関係で守るべきこと)

智(知識を重んじ学問をすべきこと)

信(誠実であること等)

の徳のことを指します。

 なお、小室直樹氏によれば、儒教が日本に最も多大なる影響を与えたものは、生活や思想面ではなく、

明治以降に取り入れられた官僚制

(ここでいう官僚制は、何も役所のものだけではなく、日本においてあらゆる組織に見られる官僚制を指しています。)

と、

科挙神話(ペーパーテストの点がよければ偉い人というように考える神話。小室氏の言葉では「受験制度」)

であるとのことです。

 また、本家の官僚制は、宦官というカウンターバランスシステムがあったわけですが、日本ではそれなくして官僚制を取り入れたため奇態な行動様式となっているとしています。

 小室直樹氏によれば、カウンターバランスシステムがなければ、必然的に腐敗するのが官僚制だということです。

 儒教は、このように魂の救済的な部分が少ないため、今回は、サナトロジーや死生観からは少しずれた話に思えるかのような形になっていますが、

ただ位牌などは、儒教の死生観が仏教に溶け込んだものであったりしますし、法事なども、儒教の影響を受けていますし、それ以上に、日本の習俗、価値観、社会制度にまで、深層的な影響を及ぼしているものですから、それらの由来を知るという点では、このような儒教理解も必要になってくるものと思われます。

参考文献)『日本人のための宗教原論』 小室直樹著 徳間書店 2003年
『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 ちくま文庫 2006年

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民俗学的サナトロジー

 民俗学者の赤田光男帝塚山大学名誉教授は、死者が先祖となる過程について、「蘇生」「絶縁」「成仏」「追善」という4要素を経て、そのたびに儀礼・供養を繰り返し、それにより死者は先祖となっていくとしています。

 命終した人の蘇生を願う儀礼が、「蘇生儀礼」で、親族が空の方向や井戸の底を覗き見しながら、死者の名を呼び、霊魂を肉体に呼び戻すといったような儀礼が各地に見られるようです。

 儒教の招魂儀礼に似ているものと思われます。
 
 葬儀の出棺の際に死者が使用していた茶碗などを門口で割る、近隣の死者の報を耳をふさいで聞かないようにするといったような儀礼が「絶縁儀礼」で、これは、死者との関係を絶とうとするものです。

 蘇生儀礼で、死者の霊魂が肉体に戻らないとわかると、愛慕の念が恐怖の念に変わるというところから、このような儀礼が生まれたものと思われます。

 次に、葬儀を終えた後、死者を無事あの世に送り出す儀礼を「成仏儀礼」といい、日本では、仏教儀礼として行われる場合が多いようです。

 燕が、無事死者をあの世へ送ってくれるようにと、墓地に燕の模型を置いたりするといったような伝承も聞かれます。

 そして、いわゆる法要、法事等を「追善儀礼」といいます。

 忌明け以降の、百か日・一周忌・三回忌・七回忌などの年忌法要を指し、三十三回忌~五十回忌まで行われる場合が多いとされています。

 この追善儀礼を経て、「弔い上げ」と呼ばれる、死者に対する祭祀の終了を意味する儀礼が行われる場合もあり(三十三回忌又は五十回忌をもって弔い上げとする場合が多いようです)、

 これにより、死者が先祖となるとする習俗が多いと民俗学的には考えられています。

 このように長い期間をかけて儀礼を行うことにより、死後直後の死者の荒ぶる霊魂が静まり浄化され、神聖な先祖へと昇華するとの考え方に基づくものだとされています。

 また、百か日・一周忌・三回忌にも、儒教の影響が見られますが、中国仏教に儒教が取り込まれ、それが日本にも伝わったからだと考えられています。

 七回忌以降の年忌法要は、「十三仏(冥界の審理を行うとされる13の仏)信仰」等の影響を受けた、日本独自のものと言われています。

 なお、仏教の多くの宗派では、死後49日まで、死者は、「中陰(中有)」という状態にあり、この世とあの世をさ迷うと考えているようです。

 この間、死者は、7日ごとに、閻魔などの10名の冥界の王・総司達の審理を受け、49日に、輪廻先が決定されるとされます。

 死後7日目の「初七日」から、49日目に行われる「七七日(なななのか:四十九日、満中陰ともいいます。)」、

100日目に行われる「百か日」までの忌日法要は、遺族が故人の成仏を祈り、極楽等の浄土(清浄で清涼な仏の世界)に赴けるよう願う、故人に善を送る追善供養です。

 「七七日」に忌明け法要を行い、納骨埋葬するという日程が通常のようです。

 なお、「百か日」は、卒哭忌(そつこくき)ともいい、哭(な)いて過ごした日々を、卒(お)えるという意味があり、もとは、儒教の『礼記(らいき)』という書物に由来があるもので、前述したように、これを仏教が取り込んだものだとされています。

 深い信心を持った人は、命終とともに、すぐに浄土に赴くため、中陰はないとし、追善も必要なしとする仏教の宗派もあります。

 ただ、その場合でも、報恩感謝のため、また故人を偲び、さらに人生を見つめなおす等の意味合いから儀式が行われる場合もあります。

 また、これらの儀式は、死者の霊を慰めるといったような宗教的意味、民俗学的意味、故人の逝去を告知し、別れの儀式を行うといった社会的意味だけでなく、臨床心理学的意味、すなわち、残された者の悲しみを慰めるといった、グリーフ・ケア(悲嘆のケア)としての役割もあるものと考えられています。

 次に、アイヌの民俗学的死生観をみていきたいと思います。

 アイヌの人達は、死者は、地下にあると信じられていたポクナモシリと呼ばれる他界に赴き、現世と全く同じ生活をし、しばらくの間そこに留まり、また再びこの世に誕生するという死生観をもっていたようです。

 なお、神々が住まう天にあるという世界は、カムイモシリ、地にある人間が住む現世の場所は、アイヌモシリと呼ぶとのことです。

 民俗学的には、大きくわけて、二つの他界(あの世)観があるとされています。

 ひとつは、死者の霊が近隣の山にいて、子孫を見守り、盆正月のような時期に家に帰ってくるという「山中他界観」です。

 そのような死者の霊が留まる山として、恐山(青森)、高野山(和歌山)などがあるとされています。

 もうひとつは、山ではなくて、海に死者の他界があるとする、和歌山の補陀落渡海(南海のかなたにある浄土)観や、沖縄のニライカナイ(東海のかなたあるいは、他の伝承によっては地界又は海底にあるとされる異界)観のような、「海上他界観」です。

 なお、ニライカナイは、琉球列島各地の伝承に伝わる異界で、ニライカナイの最高神である東方大主(あがりかたうふぬし)が治める神界であり、理想郷であり、豊穣や生命の源であるとのことです。

 伝承によると、人の魂は、ニライカナイからやってきて、死を迎えるとニライカナイに帰っていき、祖霊となり、また死後七代経つと、祖霊は神となり、守護神となって村に戻ってくるとのことです。

(ただ、伝承によっては異なる内容となっている場合もあります。)

 そのため、沖縄では今も、祖霊、守護神つまり、神となる、あるいは神となった祖先を非常に敬い、祖先崇拝を非常に大事にしているとのことです。

 他にも、天上他界観や、地下他界観(日本神話における黄泉、前述のポクナモシリ等)などもありますが、

民俗学的他界観は、次元の異なる空間世界に行くというのではなく、人里離れたこの世の果てに、他界があるという考え方がベースになっているものが多いようです。

参考文献): 『人は死んだらどうなるのか?』 斉藤弘子著 言視舎 2015年
『手にとるように民俗学がわかる本』岸祐二著 かんき出版 2002年
 『図解雑学 こんなに面白い民俗学』八木透・正岡伸洋編著 ナツメ社 2005年

  行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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