ターミナル法務とサナトロジー

 サナトロジー(死生学)は、尊厳死問題やターミナルケアなどを背景に、1970年代に現れた新しい学問領域で、死を見つめながらも、それを乗り越え、生を見つめなおすことをも目的とするものです。そんなサナトロジーに関する情報について、多くの方々と共有していきたいと思っております。

大阪・寝屋川の行政書士・マンション管理士・FPです。東京商工会議所主催ビジネス実務法務検定試験(R)1級・日商簿記1級・日心連心理学検定(R)特1級の3つの1級資格を保持する、おそらく日本で唯一のトリプル1級ホルダーの行政書士だと思います。多角的な視点から思考することができる総合的なサポーターを目指しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

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2015年11月

心理学的死生観

 今回は、死と生をめぐる心理学的な思想を概観していきたいと思います。

  まずは、フロイト的な死生観ですが、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトによれば、生きるとは喪失の連続であり、常なるものは何も無く、無常ではあるが、だからといって生が無駄であるということではなく、生は無常で有限であるからこそ、意味があるとします。

 学校なども、修業年数があって、永遠に続くものではなく卒業があります。修業年数があるおかげで、「卒業までにこれをやらなければならない。友人との学生生活にも限りがあるので、思いっきり楽しまなければ。」という想いも出てくるのかもしれません。

 また、修業期間が終わると卒業があるわけですが、そこに様々な別れと新たな出会いというドラマが生まれることにもなります。

 永遠にいつまでも通う学校となると、「これは今やらなくてもいい。学生生活は永遠に続くから、今別に友人と濃密な関係を熱心に作る必要もないだろう。」となってしまうかもしれませんし、別れと出会いのドラマも生まれません。

 修業年数という有限性があるから、学生生活も輝いてくるのかもしれません。

 ただ、一方で、お茶やお琴などの習い事などは、修業年数などは特になく、いつまでも続くもので、こちらにはある意味、無限性があるといっていいのかもしれません。また、修業年数の制限のない習い事などは、じっくりと芸を磨くことができ、また変わらぬ仲間との有情を長期に渡って築くことができ、これはこれでいいものではないかと思います。

 前回の投稿で述べましたように、ロバート・リフトン氏によれば、人はいつでも「生きている実感」を強く感じようとする一方で、生の有限性を超えた無限の何かとつながることで、「永遠の生命」を得ようともし、その両方の思いの中で揺れ動くとのことですが、「有限性」と「無限性」を共に欲する心理が人間の中にはあるのかもしれません。

 臨床的には、死を否認することによって、抑鬱等のメンタルヘルス不調となる場合があります。死別体験をし、悲嘆反応が生じることは、逆に対象の価値を認識することにつながることになります。

 次に、分析心理学(ユング心理学ともいいます)の創始者、カール・グスタフ・ユングの死生観についてみていきたいと思います。

 その前に、ユング心理学における、意識・無意識の分類について確認しておきたいと思います。

 心には癖が、もうすこし固い言い方をすると、「心の動きには習性ないしパターン」があるとユング心理学では考えます。

 ユング心理学では、意識できる心の動きの習性を「自我」、意識できないそれを「コンプレックス(一般的に使われる劣等感という意味ではありません。)」・「元型」と呼んでいます。

 「コンプレックス」は、後天的な生活上で獲得した、もとは意識化されていた「心の習性」なのですが、忘れてしまったり、抑圧したりして無意識の中に閉じ込めたものです。ただ、無意識の中に生きており、意識できない心の癖として現実事象に表れるものとなります。

 なお、コンプレックスが閉じ込められている無意識領域を「個人的無意識」といいます。

 対して「元型」は、後天的なものではなく、生まれながらにして持つ、生得的な「心の動きのパターン(つまり、「型」)」でありかつ意識化できないものです。

  穏やかなよく晴れた空を見ると、誰に教わったわけでもなく、意識したものでもないのに、「さわやかな気持ち」が沸いて出てきたりすると思いますが、これこそが「元型」です。

 この元型のおかげで、例えば初日の出を見たときの「荘厳」な気持ちを意識せずとも他人と共有できたりするわけです。

 そして、「元型」的な無意識領域を、「集合的無意識」といいます。

  ユングは、人生における「自分らしさ」の追及を「個性化」と呼んでおり、死はそれの最終段階であるとします。また、死によって、個人の意識が、集合的無意識に融合するともとれる考え方を示しています。仮にそうなら、仏教上の「唯識論」に似ているところがあるのではないかと思います。

 この世界は、心が見せる幻であり、集合的無意識を海にたとえると、意識や個人的無意識は、海の上を走る波のような「現象」であり、この波のような現象が収まると、波立たない静かな海となりますが、死とはそういうものであり、波(意識や個人的無意識)は、穏やかな海(集合的無意識)の中に溶け込んでいくというようなイメージかもしれません。

 ユングは、臨死体験を経験していて、その経験と上記のような考え方をあわせると、死後生の存在があることを匂わせていますが、ただあくまでも、それは心的現実であるとの態度から離れていませんので、死後生を明確に現実として捉える宗教的死生観やスピリチュアル死生観とは区別される、心理学的死生観の範囲内に留まっているものと思われます。

 なお、死を無に帰するものとすると、ユング心理学的な臨床的見地からすると、死への不安、恐怖感に押しつぶされそうになるため、集合的無意識に内在する、死と再生の宗教的あるいは神話的イメージに補償されながら、死に向かう必要があるとされています。

 現代日本においても、死生観的なことを考える人も増えてきたとは思うのですが、ただニュートン力学的な近代科学的論理的思考のもとで生きてきたような人は、実証できない輪廻転生があったり、天国や地獄があったりするような、宗教的死生観は、全肯定できないかもしれません。

 また、ニヒリズム的死生観(死んだら何も無いと考える死生観)も、むなしすぎて、元気なときはそれでもいいかもしれないのですが、歳老いて弱ってきたら、そんな考えは許容できなくなり、両者(宗教的死生観・ニヒリズム的死生観)の間を揺れ動くという人は多いかもしれません。

 そのような人達にとっても、アカデミズムの範疇内にあり、理屈も通っている心理学的死生観は許容しやすく、不安を癒す可能性があるということで受け入れられる場合があるかもしれません。

 なお、宗教的な死生観は、信者にその死生観を信じることを求めることになるのですが、スピリチュアルな死生観(個人主義的な死後生の肯定)は、個人の内的確信の立場を貫くものであるので、他人に信じることを求めるものではありません。

 信仰にも確信が持てないし、ニヒリズム的死生観も嫌だという人にとって、心理学的死生観等の学問に由来する死生観以外にも、そういうスピリチュアルな死生観も有力な選択肢となりえるかもしれません。

 但し、スピリチュアルな死生観は、しっかりとした学問的理論がない場合もあり、個人的確信に根差すので不安定である、つまり他人との共有がしにくい考え方ではあります。

 なお、心理学的死生観においては、死後生の存否には関与しないという立場を採っています。そうしないと、それ以上踏み込むと、学問的死生観の境界を越えて、宗教的死後生実存論に踏み込むことになるからです。

 ユング心理学における死後生的な考えも、前述したように心的現実として扱うという態度を崩していませんので、心理学の範疇に留まっており、宗教的な死後生実存論に踏み込んでいるとまではいえないものと思われます。

 このように、心理学的死生観では、死後生の存否には関与しないので、死と生とを区別でき、死の直視と生の意味と価値の認識を同時に達成することができるとされています。 

 死後生があるとする宗教的あるいはスピリチュアルな死生観では、死後生があるわけですから、いわば死なないといってもいいので、死と生の区別がつかず、死を否認し、受容せず、ゆえに、死の直視と生の意味と価値の認識を同時に達成することが難しくなる可能性があるとの考えもあります。

 ただ、キューブラー=ロスも、当初は、宗教的・スピリチュアル的な死生観による、死後生実存論は死の否認であると断言していたようなのですが、後年、患者の臨死体験の報告などを受け、死後生を肯定し、考え方を変え、宗教的伝統を、死を受容する共同体として評価し、宗教は死を否認するものではなく、受容するものであると考えていたようです。

 なお、臨死体験とは、臨床的に死に至ったと判断されていた人が蘇生し、蘇生後に語る体験のことをいい、その各々の体験には、以下のような共通のものが見られるとのことです。

 医師から死の宣告を受けたあと、いいようがない心の静けさと安らぎを感じ、その後、ブーンというような音を聞き、暗く長いトンネルを抜け、体外離脱をし、先に亡くなった縁者に会い、まばゆい光に包まれ、自分の人生の回顧(ライフレビュー)のパノラマを見ることになり、しかし、「ここにいてはいけない」等の声を聞き、現世に引き戻され、死後世界との境界を見て、蘇生するというようなパターンです。
 
 ユング心理学者で、元文化庁長官であった河合隼雄氏によれば、このような臨死体験の共通ストーリーは、古来からある神話や宗教上の死後生に関する記述との類似性があるとのことです。

 死後生を肯定する立場からすると、人のライフサイクルは、身体を超えた「魂」のライフサイクルとなります。

 哲学者である西平直京都大学大学院教育学研究科教授によれば、このようなライフサイクルを提唱している理論家の一人として、ルドルフ・シュタイナー(1861- 1925)を挙げています。

 魂のライフサイクルという観点から考えると、自己の人生を、現世を越える超越的な角度から視野におさめることができるものと思われます。

(東京大学グローバルCOE 死生学 冬季セミナー(20080113) 講義概要 『20世紀心理学の死生観──フロイトからキューブラー=ロスまで』 堀江宗正(聖心女子大学)著:但し、PDFファイル)
『臨床心理学の世界』 菅佐和子他著 有斐閣アルマ 2005年
『無意識への扉をひらく―ユング心理学入門〈1〉』 林道義著 PHP新書 2000年

 行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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社会学的死生学

  アメリカの精神科医、ニューヨーク市立大学名誉教授、ロバート・リフトン氏によれば、人はいつでも「生きている実感」を強く感じようとする一方で、生の有限性を超えた無限の何かとつながることで、「永遠の生命」を得ようともし、その両方の思いの中で揺れ動くとのことです。

 後者の思いを象徴化したものを「象徴的不死」といい、これには5つのモードがあるといいます。

① 生物学的モード・・不死性を、子孫が永遠に絶えないということにたくすモード。
 
② 神学的モード・・不死性を、永遠不滅の魂の存在にたくすモード。

③ 創造的モード・・不死性を、死後も永遠に語り継がれる自身の業績・名誉にたくすモード。

④ 自然的モード・・不死性を、永遠不滅であると観念される自然に、自身を一体化させて、たくすモード。

⑤ 経験的超越モード・・不死性を、悟りなどの神秘体験を得ることにより生死を超越することによって、たくすモード。

 これらのモードは、単独で存在する場合もあれば、複数が重なり合って存在する場合もあるとのことです。

 例えば、結婚相手に優秀な人を望むという場合は、①生物学的モードと③創造的モードが重なり合っていると思えますし、

霊山を修行の場として厳しい修行を行うことにより超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指すという修験道の山伏は、上記の①以外の全てが重なっているモードかもしれません。

 かつて死生観は、宗教などが体系化し、またそれを人々が共有していたわけですが、現代日本においてはとりわけ戦後の様々な事情から宗教に対する忌避観が強まり、

あるいは宗教観が希薄化し、死生観を宗教に頼るということができない場合が多くなっているものと思われます。

 こうなってくると、信仰を持つことなく、安らぎを得られる死生観を求める場合、自身でそれを体系化する必要が出てきます。

 哲学的死生観・心理学的死生観・スピリチュアル死生観などを参考にしつつ、象徴的不死の5つのモードのうち、いずれかを選びあるいはいずれかを組み合わせて、体系化し、紡いでいく必要があるということです。
 
 ただ、非常に安易に、自身による深い考察なしに、例えば、悪質な反社会的カルトなどが提供する、上記⑤経験的超越モード的なプログラムによってそれを得ようとすると、様々な問題を引き起こすことになります。

 そういう意味からも、死生学(サナトロジー)に親しんだり、欧米などでは、学校教育の場でもすでに行われている、

日本における死生学のパイオニア、哲学者のアルフォンス・デーケン上智大学名誉教授が、

日本にも広めようと尽力されている、デス・エデュケーション(Death Education:死への準備教育)を行うことが重要になってくるものと思われます。

 医学や公衆衛生が不十分な時代は、死が日常に溢れ、身近にあり、身近な人は家で亡くなり、葬儀なども家で行うことによって、成長過程の中で人は何度も、人の死を体験していました。

 そのような時代なら改めてデス・エデュケーションを行う必要はなく、日常の生活そのものが、デス・エデュケーションとなっていたものと思われます。

 ところが、医学の近代化、現代化により、人は病院で亡くなり、葬儀も葬祭ホールなどで行われるようになり、死が身近ではなくなりました。

 人は身近でないものを恐れ、恐れるものは遠ざけようとします。

 加えて、経済的に豊かとなり、栄養状態の改善、医学の進歩等によって、長寿となり、また楽しめる娯楽も増え、宗教に対する忌避観や希薄観が高まり、現世への愛着も強まったと思われることもあいまって、死は日常からさらに遠ざけられ、口にすることもはばかれるものとなりました。これを「死のタブー化」といいます。

 「死のタブー化」により、体系化された死生観を持つことなく、はじめてそれを意識することになるのは、身近な人や自身が終末期に至った場合や身近な人との死別体験のときかもしれません。

 このような場合の苦悩は、サナトロジーに親しむことや、デス・エデュケーションを受けることによって、緩和される場合もあり、またそうすることによって、真摯な生き方や生命への畏敬の念を子供達に学んでもらうということもできるものと思います。

 こういうことから、日本においても、学校の授業科目や、医療・介護・社会福祉等のターミナル・ケア関係者の研修科目として、サナトロジーを設けるところや、デス・エデュケーションを行うところも増えてきているようですが、欧米のように一般化し、市民権を得たとまではいえず、さらなるサナトロジーや、デス・エデュケーションの普及が望まれるところです。
 
参考文献)『社会学がわかる辞典』 森下伸也著 日本実業出版 2004年 第12刷

 行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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精妙なワンダーワールド(5)不思議な体験の受け止め方

 ボーアやハイゼンベルク、シュレーディンガーは、奥深い世界については、科学ではなく、東洋思想に、パウリはユング心理学にヒントがあるのかもしれないと考えてそれらを学んだのかもしれません。

 最先端科学をリードしたボーアやハイゼンベルク、シュレーディンガー等も、

実験・因果関係・数学などを道具として使い、答えが出るものだけを扱う「科学」だけでは飽き足らず、

東洋思想をも知として取り入れたということは、本来そういうあり方がバランスの取れた考え方と考えたからかもしれません。

 限界があると思われる科学だけを信じるというスタンスでもいけないし(実証できない世界は一切無視するというのはどうかということです。)、

かといって、実証ができないようなものだけを拠り所とするのもいけないし、どちらも均衡的に取り入れて、指針とするというのがバランスの取れたあり方かもしれません。

 デヴィッド・ボームのホログラフィー理論は、量子論に基づく、厳密に数学で示された理論ではありますが、ただ確かめようがないので、仮説に留まるものです。

 しかし、ボームがいうような明在系の周りを囲み覆い尽くすかのような、本質の世界といっていい、暗在系があるのであれば、

ミクロの世界は、この暗在系(私たちが伺い知れない世界)と、明在系(私たちの日常世界)との境界であるため、

ミクロの世界に、暗在系の秩序が滲み出しており、ゆえに時空をも超えたような、不思議な性質がそこに染み出ているのかもしれません。

 暗在系の存在は不明ですが、ただ、ミクロの世界が精妙なワンダーワールドであることは確かだと思います。

 中には、もっと直接的に、このようなミクロの世界の不思議さを表現せずにいられない学者もいるようで、ボームと同様に、アインシュタインの共同研究者でマンハッタン計画にも参加し、

ブラックホールの命名者でもある、ジョン・ホィーラーは、

「どんな素粒子の現象も人が観察してこそ初めて本物の現象になる」

と述べています。

コーネル大学名誉教授のデビット・マーミンはもっと直接的に、

「誰も見ていないなら、そこに月なんて存在しない。」

とまで言い切っています。

「誰も見ていないなら、そこに月なんて存在しない。」などということは、信じられないアインシュタインは、もうこれ以上、仲間の科学者に聞いてもしかたがないということで、

哲学者に、「そんなわけないだろう。誰も見ていなくても、月はそこにある。」

との答えをはっきり言ってもらって、安心するためかどうかは不明ですが、

インドの思想家ラビンドラナート・タゴールのもとを訪ね、

「私が見ていないときは、月は存在しないのですか?」

と尋ねたところ、あっさりと、「その通り」との答えが返ってきて、落胆したとのエピソードもあります。

 ともあれ、この世界は、ニュートン力学で示されるような、単純な機械論的な世界ではなくて、もっと得体の知れない精妙な世界であることは確かのようです。

 フランスの哲学者で、記号論の第一人者ロラン・バルト(1915-1980)は、

「原始宗教とは無縁な現代社会においても、神話的構造が日常生活の秩序を裏からひそかにささえている。」

的なことを言っているのですが、

バルトは、量子力学者ではない哲学者なのですが、得体の知れない精妙で、神話的世界が日常の背後にあることを嗅ぎ取っていたのかもしれません。

(「不思議な体験」 周囲が受け止めて)

(上記より以下引用)

「東日本大震災の犠牲者と遺族が再会した「不思議な体験」の聞き取りを、ジャーナリストの奥野修司さん(67)=東京都在住=が被災地で続けている。切々とした告白からは、喪失感の大きさ、魂と再び巡り合った喜び、体験を周囲に理解してもらえない苦しみ…といった遺族の心の深奥が垣間見える。

中略

霊体験を語ることを否定的に捉える面がある風潮について、奥野さんは「遺族の悲しみを現代社会が受け止め切れていない」との考えを示す。霊がいる、いないではなく、遺族の体験そのものを素直に尊重すれば「遺族が語りやすくなり、悲しみのセルフケアにつながる」と説く。」

(引用終わり)

 ミクロの世界は、前述したようにワンダーワールドそのもので、しかもなぜ、そのようなふるまいをするのかは、人間には分からせないような仕組みに、この世界はなっているように思えます。

 なので、科学ではその先については探索しないし、そもそも触れないというのが、コペンハーゲン学派やその後継者達のような多数派の暗黙の了解になっているだけで、

(但し、これも前述したように、ノーベル賞受賞者が、軒を連ねるコペンハーゲン学派の量子力学者達なども、もう科学的な探求はしないけれども、ただ東洋哲学やユング心理学的なアプローチによる探求は続けるという態度を採る人は多くいました。)

科学は万能ではなく限界があって、科学で全てが説明できるわけではないということを認識しておいたほうがよいのかもしれません。

 このような認識があれば、上記記事にあるような不思議な体験をされた人の話を、無碍に扱うということをする人も少なくなるのではないかと思います。

 ボームが言うような暗在系のような次元があるかもしれないわけですから、「あるかもしれない」という前提で話を聴くのは、「ないという実証はできないが、ないと言いきるべき。」という考えよりも、人に優しいものではないかと思います。

 だからといって、実証できないオカルト的なことを絶対的なものとして、それ一辺倒になるのももちろん、望ましいことではないものとも思います。

 前述しましたように、バランスの取れた考え方ができるとよいのではないかと思います。

(<祈りと震災>(19)それで心満ちるなら)

(上記より以下引用)
 

「浄土真宗本願寺派の僧侶金沢豊さん(34)は京都市から毎月、岩手県南を中心に被災地に通う。仮設を訪ね、ひたすら傾聴する。2011年秋から1000軒ほどを訪ね、約200軒の被災者と話をした。時に打ち明けられるのは超自然的な現象や幽霊話だ。

(中略)

「頭がおかしくなったって思われるから、あんまり他人には言えねえんだ」。そんな諦めに似た声も聞いた。」

「死者の声を封じ込めてはいけない。亡き人の存在を縁(よすが)として生きる、残された人たちの言葉を聞く」。少しでも心をほぐせればと玄関のベルを鳴らす。

(引用終わり)

 現代最先端科学主流派のコペンハーゲン解釈も、

「月は誰も見ていなければない」というような常識では信じがたい話になっていて、

これでは納得がいかないということで、出てきた、

多世界解釈では、「決して見れないパラレルワールドがある」、

波乗り解釈では、「謎の波が出る」、

そして波乗り解釈の提唱者ボームは、

「この世である明在系を包む本質の世界であるあの世つまり暗在系がある。」

的なことまで言っていて、探れば探るほど、摩訶不思議な世界観しか出てこないようです。(^^;)

 いずれにしても、この世界は本来はワンダーワールドであるというのが、最先端科学の結論と言っていいのではないかと思います。

 ただ、この先は、実証が現在では無理なので追求しない、できないだけなのかもしれません。

 科学で実証できない哲学的なことを考えたところで、科学技術が発展するわけでもないですし、量子コンピュータの開発などをしていたほうが実利的であると考えていらっしゃる科学者が多いのではないかと思います。

 この世界は、単純な機械論的な世界ではなくて、精妙で摩訶不思議なワンダーワールドであることが本来の姿なのでしょう。

 なら、不思議な体験を語る人達の話を、信じきる必要はないのだけれども、受け止めて、

ただ、「そういうこともあるかもしれないし、ないかもしれないけど、この人はそういう体験を実際にしたのだなあ。」

という態度で、聴いてあげるということがあってもいいのではないかと私は思います。

 Aさんという人が、Bさんという人を好きだと、友人のCさんに話した場合、本当にAさんが、Bさんを好きだということを誰も科学的に実証することはできません。真実は、Aさんのみが知ることで、他人は決して真実はわかりえません。

 しかし、「Aさんが本当にBさんを好きであるということは、科学的に実証することができないので、Aさんの話は真実かどうかわからないため、聴いてあげる必要はない。」

とは、Cさんは言わないことでしょう。

 友人であるなら、親身になって話を聴いてあげるものと思います。

 「私は今朝、このような夢を見た。」ということを、他の人にも、確信が持てるように科学的に実証することはできません。

  しかし、夢を見た人にとっては、その夢は現実に見たわけですから、現象として確かに存在していたわけであって、また

「今日、こんな楽しい夢を見たんだよ。」と誰かに話すと、

「よかったね。楽しい夢を見たね。」とその人はしっかりと受け止めてくれると思います。

 上記のような不思議な体験を語る人達の話も、同様に受け止めることができる人が増えれば、救われる人もまた増えるのではないかと思います。

 行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

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精妙なワンダーワールド(4)ドブロイボーム解釈(波乗り解釈、パイロット解釈)

 コペンハーゲン解釈や多世界解釈の他に、マンハッタン計画に大きな影響を与え、理論物理学だけでなく、神経心理学にも影響を与えた

デヴィッド・ボームが唱えた、「ドブロイボーム解釈(波乗り解釈、パイロット解釈等ともいう)」というものもあります。

(ボーム解釈:ウィキペディア)

 これは、

「ミクロの粒子(電子)が電子銃から発射されるに先立って、粒子は謎の波を出し、この波に乗って粒子は、波まかせでサーフィンするように、いずれかのスリットを通り、スクリーンに到着する。」

というものです。

 これなら、「モノは観測する前は、波というよりは、あらゆる場所に存在する可能性の波、ようするに幽霊のようなもの。しかし、観測されるとモノ(粒子)となる。」

とか、
 
「多世界がある。」

とかの、一般の常識とは大きく外れる、ワケが分からない解釈ではなくて、

「電子(あらゆるモノ)が分身の術みたいなのを使ったり、幽霊みたいになったり、世界がたくさんあったりするのではなくて、電子はちゃんと、いずれか一方の穴を通る。常識とも外れていない。」

という世間一般の人にも納得がいく解釈となるわけです。

 ただ、問題は、電子が発射される前に発するという「謎の波」の存在です。

 この謎の波も観測されませんし、ゆえに確認することができず、

また上記リンク先にもありますように、ボームは、解釈をしただけではなくて、この「波乗り解釈」を元に方程式を提示しているのですが、これが、シュレーディンガー方程式に輪をかけて難しいわけです。

 シュレーディンガー方程式で実利的な用が足りるのであれば、わざわざ難しい方程式を使う必要もないということで、ボームの解釈も大きな支持を得るには至らず、

また、その難解な方程式も使われることもなくなり、物理学史の中にだけ残るということになって、結局、観測問題も、コペンハーゲン学派の学説が通説となったということです。

「多世界解釈」や「波乗り解釈」も真実かもしれないのですが、現在はそれを観測する術がなく、確認しようがないため、もうここから先は科学で立証することは無理だということです。

 「この世界の有り様はどうなっているのか?」を解き明かすためにはじめられたものなのですが、

ここに至って、科学は,

「もう、これ以上、世界の有り様に深入りすることはできない。」となり、

「それよりも、浮世でのテクノロジーの進化などを目指す」、

「道具主義(インストルメンタリズム)」となり、道具として使われるようになったといっても過言ではないものと思います。

「科学でこの世界の全てが明らかにされる」という考え方は希薄になってきたということではないかと思います。

 死後生の存在を含む、死生観などについても、ここまで見てきたような量子力学の解釈問題と同様、現在の科学によって確認しようがないものだと思われます。
 
 ですので、死生観は、科学的に実証するものではなく、個々人が安らぎを得るために、ストーリーを紡ぎだしていくもの、そう捉えるものとして考えてよいのではないかと思うところです。

「波乗り解釈」を提唱したデヴィッド・ボームは、量子力学に基づく世界観として、「ボームのホログラフィー理論」というものも提唱しています。

 この理論は、神経心理学者カール・プリブラムにも大きな影響を与えて、プリブラムは、「脳ホログラフィー理論」を打ち立てています。

 脳は、その大半を無くしても、記憶が薄れても、なくなることはありません。ということは、記憶中枢のような特定箇所はないということになります。

 そこで、プリブラムは、脳は、外界のエネルギー波動のパターンを一瞬にして読み取り解析し、その情報を脳の全体に干渉縞のように数学的に変換し符号化して与えると考えました。

 このような形で、脳のどのように小さな部分にも、脳の全体の情報が与えられるとしたわけで、金太郎飴みたいになるわけです。

 このような数学的操作は、フーリエ変換というもので行われるとのことです。

 なお、プリブラムは、脳だけが、ホログラム的であるのではなくて、宇宙全体がホログラム的であるとも主張しています。

 宇宙全体の情報が、そのホログラム的断片である脳にも含まれていて、脳はこのようなホログラフィック宇宙を翻訳する一片のホログラムであるというわけです。

 ボームはさらに、人体だけではなく、この空間の全てに、宇宙全体の情報が含まれている、その辺に落ちている紙切れにも含まれていて、空間にあるもの全てが、宇宙全体のホログラム的断片であるといいます。

 私たちの身体を全宇宙とすると、各細胞が部分となるわけですが、その部分には、DNAが持つ遺伝的符号の中に全身の情報が含まれています。
 
 宇宙は、これと同様の構造をしているというわけです。

 なら、こう思う人が多いことでしょう。

「空間のどの部分にも、全宇宙の情報が織り込まれているのなら、なぜ私たちは、宇宙の全てを知ることができないのか?

宇宙の全てどころか、DNAが持つ遺伝的符号の中に全身の情報すらもわからない。

身体の高度な機能すらも自分の身体のことなのにわからないし、自分の心のことすらもわからない。なんでこんなにわからないことだらけなのか?」

 これに対して、ボームは次のように述べます。

 ボームは、数学や量子力学を駆使し、理論的に言っているのですが、概要的にまとめると、

「宇宙の秩序には、

「開示された秩序(明在系)」と

「織り込まれた秩序(暗在系)」とがあり、

「織り込まれた秩序」は、原理的に知り得にくいようになっているため、全体を操っている大きな秩序を、部分は原則として知るよしもない。」

ということです。

 ガラス製の円筒の中に、それよりも小さなガラス円筒を入れ、両円筒の隙間にグリセリン液を満たし、

不溶性のインクの滴を入れ、この円筒をゆっくり回転させると、滴は細い糸のようになって引き伸ばされ拡散されて、やがては目に見えなくなります。

 しかし、今度は逆方向に円筒を回すと、インクが再び、ゆっくり集まってきて、最後には再び目に見えるもとの滴へと凝集します。

 時間差で3滴垂らして、同様のことをすると、いずれの滴も見えなくなったときに逆回転すると、まず3滴目の滴が復活します。

 しかし、さらに円筒をまわすと、3滴目(最初に復活した滴:過去)は消え、

2滴目(現在)が復活します。

1滴目(まだ復活していな滴:未来)は、依然復活していません。

 ですが、3滴目(最初に復活した滴:過去)も、1滴目(まだ復活していな滴:未来)も、

グリセリン液(全体)の中に織り込まれて、確かに存在しているはずですね。

 ただ、見えないだけです。

 この場合の、グリセリン液(全体)や、

そこに織り込まれた3滴目、1滴目が「織り込まれた秩序(暗在系)」となり、

2滴目(現在)が、「開示された秩序(明在系)」となります。

 そして、私たちは、この2滴目の世界の中にいるので、「開示された秩序(明在系)」しかわからず、

確かにあるはずの、「織り込まれた秩序(暗在系)」のほうは、原則としてわからないことになります。

 ところで、インクの滴が、円筒を回すことによって、

このように「織り込まれた秩序(暗在系)」に消えていったり、

「開示された秩序(明在系)」に現れたりする様は、

電子が波動(コト・情報)となったり、粒子(モノ)となったりする様とよく似ています。

 量子力学者が提唱した理論ですからそれに基づいているので似ていて当たり前なのかもしれませんが。

 「科学は「もう、これ以上、世界の有り様に深入りすることはできない。」」

「織り込まれた秩序(暗在系)」こそが、

上記でいう「世界の奥深い部分」になるかと思いますが、

ただ、他の科学者と異なり、ボームは、科学は道具主義となるのではなくて、

なんとか「織り込まれた秩序(暗在系)」を知る手立てを見つけ、「暗在系」を基礎として、

人間の心を含めた、全ての存在を、分割し得ない全体として扱わなければならないと言い残しているそうですが、

そういうスタンス取る科学者は少なく、実利的科学者のほうが多いのかもしれません。

 ボームのいう、暗在系のようなものがあったとしても、

科学はそこまで踏み入る必要はないと多くの科学者は考えているのかもしれません。 

 なお、前述のような円筒のように、世界はなっているとすると、「現在」だけが存在するのではなくて、

全体の中に、「過去」・「未来」も織り込まれており、

過ぎ去りなくなった、あるいはまだ来ていないのでないものではなく、

ただ見えないだけで、現在と同時に、過去未来も全体の中に存在していることになります。

 また、円筒を回すことによって、「過去」・「未来」を現出させることも可能ということになります。

 このような考え方は、下記の実験内容に似ているところがあるのではないかと思います。

(光子の過去を変える!? 量子力学の不思議な実験日経サイエンス)

(上記より以下引用)

「互いに連動する光子のペアをたくさん作り、一方の光子を適当に飛ばしてスクリーンに当てた上で、他方の光子の経路を気まぐれに調べたり調べなかったりする。

スクリーン上の光子のうち、相手の光子がたまたま調べられなかったものだけを取り出してスクリーンを感光させると、そこには干渉縞ができている。

逆に相手の経路が調べられた光子だけを取り出すと、干渉縞は見えない。相手のどれを調べるかは後から決めたのに、そのことが先に飛んできた光子の過去を書き換える。

光子の運命はいつ決まるのか。名古屋大学の谷村省吾教授は、光子が観測器に飛び込んだ時ではなく、それよりずっと後、「人間がいるマクロな世界で結果が確認された時」だと見ている。それまでは光子の過去は変更可能だという。」

(引用終わり)

 かなり、精読しないと、理解しにくい実験内容かもしれませんが、ようは、「(モノの)過去は変更可能」だということを言っているものと思われます。

参考文献)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/index.html (哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/saiFrame.html (あと科学とか
『脳とテレパシー』 ノートルダム清心女子大学教授 濱野恵一著 KWADE夢新書 1996年


行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

Blog:http://sasakihoumukaikei.blog.jp/(大阪・寝屋川:佐々木行政書士・マンション管理士事務所ブログ)
 
対応可能地域-大阪府中部・北部:寝屋川市・門真市・守口市・大東市・四條畷市(四条畷市)・東大阪市・大阪市・枚方市・交野市(これ以外の地域も対応可能な場合があります。ご相談くださいませ。)

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精妙なワンダーワールド(3)多世界解釈

(「量子論」を楽しむ本: ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる! 佐藤勝彦東京大学名誉教授著)(上記より以下引用)

「私たちが見ていないときは、波のようなふるまいをして、私たちが見た途端に粒として発見されるのです。」

 (引用終わり)

 このような現象を見て、東洋思想に心酔する量子論学者もいれば、この現象の意味をなんとか解き明かそうということで、独自解釈を打ち立てる人も多くいました。

 ただ、ここから先の話は、実験で確かめることが非常に難しいことばかりなので、あくまでも仮説に留まるものです。

 そのような解釈のひとつにヒュー・エバレットという人が発表した多世界解釈というものがあります。

 実験結果や量子論の考え方に沿うと、上記引用文のように考えるのが自然で、「観測すると波は収縮し、可能性の波であったはずの電子は粒(モノ)として発見され、この状態が固定化される。」

となり(以下これを「コペンハーゲン解釈」といいます。)、「覆水盆に帰らず」的になる(過去と未来が峻別されるといってもいいかもしれません。)のですが、多世界解釈では、まず、あらゆる可能性の世界が全てもともとあって、そのそれぞれの「可能性の世界」に我々も住んでいるとします。

 つまり、世界も数え切れないほどあって、皆さんもその各々の世界に数え切れないほど平行して、存在するということです。

 そして、ある人が、たまたま「行政書士試験の合格通知を受け取った」という事実を観測すると、この世界しか存在しなくなる、他の可能性の世界はなくなる(これは、コペンハーゲン解釈的です。)のではなくて、

他の可能性の世界、例えば「行政書士試験に落ちてしまい、行政書士とは縁もゆかりもなくなった・・。」という世界も実は並行してあって、ただそれは枝分かれしてしまっているだけで、なくなったわけではない、見えないだけでどこかにパラレルワールドとして存在していると解釈したりするわけです。(^^;)

 こう考えたほうがスッキリとする点があるので、こういう解釈も出てきたわけです。モノが観測される前は、可能性の波であるなら、観測者である私たち人間も原子からなっているわけだから、可能性の波ではないか?

 なら、モノと観測者はセットで考えるべきで、こう考えると、多世界解釈となるということです。

 この多世界解釈で考えると、「行政書士試験に落ちてしまったため、行政書士になることは諦め、別の道を探していたところ、街でスカウトされ、芸能人となってドラマに出て大ヒットし、一躍スターとなって、松涛に大豪邸を建てて住んでいる私。」のパラレルワールドもどこかにあるということになります。

「じゃあ、そっちの世界は見られないのか、できたら、そっちに移りたいのだけれどもそうするにはどうしたらいいのか?」

と、多世界解釈派に聞くとどういう答えが返ってくるかというと、「それは、原則できない。」という身も蓋もない答えが返ってきます。

 ある一つの世界に入り込むと、他の世界を見たり移ったりすることはできないとのことです。

 なら、コペンハーゲン学派の考え方と実利的に違いはないじゃあないかと思いますし、だいたい、そんなにたくさんの平行世界があるのに、

じゃあなんで、私はこの世界にいるんだ?他でもよかったのに、なんでこの世界に来ちゃったの?あっちに行きたい!等とこの世界にいる理由を問いたくなるのですが、

そういうと、「コペンハーゲン学派も、数式いじくり倒したらたまたまできた、実験結果とも必ず一致するシュレーディンガー方程式を解いて、波の高くなるところでは、電子が観測される確率が高くなる。理由はさっぱりわからないけど、と言っているだけで、理由は、述べていないではないか。だから、多世界解釈にも理由は問うな。」

と多世界解釈学派は、言うわけです。

 では、多世界解釈学派のこの仮説は、じゃあ多くの科学者から支持されているのかというと、あまり支持されていないようです。

 ただ、彼らは、多世界解釈をありえないことと言っているわけではなくて、
 
「そうかもしれないけれども、だいたい、他の世界を観測する方法が現在はないから、そんなことは、確かかめようもないし、多世界解釈をしたからといって、シュレーディンガー方程式よりも優れた方程式が出てくるわけでもないし、シュレーディンガー方程式を使って計算すれば、実利的な用は全て足りるので、多世界があるかどうかは科学者は考えなくてもいいだろう。そのようなことを考えるぐらいなら、量子コンピュータの実用化とかに力を注いだほうがいいのでは?」

と考えている人が多いのかもしれません。

 ただ、確かめようがないことだとしても、色々と思索を広げることは、面白いことだとは思います。なので、ここから先は、科学というよりは、思考実験的な話になっていきます。

参考文献)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/index.html (哲学的な何か、あと科学とか)

 行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

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