ターミナル法務とサナトロジー

 サナトロジー(死生学)は、尊厳死問題やターミナルケアなどを背景に、1970年代に現れた新しい学問領域で、死を見つめながらも、それを乗り越え、生を見つめなおすことをも目的とするものです。そんなサナトロジーに関する情報について、多くの方々と共有していきたいと思っております。

大阪・寝屋川の行政書士・マンション管理士・FPです。東京商工会議所主催ビジネス実務法務検定試験(R)1級・日商簿記1級・日心連心理学検定(R)特1級の3つの1級資格を保持する、おそらく日本で唯一のトリプル1級ホルダーの行政書士だと思います。多角的な視点から思考することができる総合的なサポーターを目指しています。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

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2015年11月

儒教思想的サナトロジー

  日本の習俗や日本仏教にも溶け込み、日本人の考え方や、のみならず社会制度までにも少なからず影響を与え、また法事等の儀式にも大きな影響を与えている儒教思想的な死生観を、今回はみてみたいと思います。

 なお、本稿は、社会学者小室直樹氏(1932-2010)や、東京工業大学名誉教授橋爪大三郎氏等の学説をベースにした、宗教社会学的見地からの考察であることを予めご了承ください。

 儒教及び宗教学としての儒教学は、様々な宗派や学派があり、思想的に非常に多様で、各宗派や各学説によって死生観や他の概念の捉え方も様々で、下記に述べるような死生観等が唯一の捉え方ではないということもあらかじめご了承頂ければと存じます。

 日本では、単なる道徳論と考えられている場合も少なくないと思われる儒教にも、死生観や魂の救済についての思想があります。

 その内容は、以下のようなものです。

 儒教では、人の魂には、魂(こん:精神をつかさどる天の陽気からの魂)と、

魄(はく:肉体をつかさどる地の陰気からの魂)とがあり、

人が亡くなると、魂は天に昇って神となり、魄は地に潜るとされています。

 遺族は、魂を祀る為に、「位牌」を廟に祀り、魄を地に返すために土葬しなければならないと儒教では考えます。

 なお、死者は、死後も生前と同じように生活すると、儒教では考えられているようでした。

 人が亡くなった場合の、儒教の祭祀の手順は次のようになります。

 まず人が亡くなった場合、声をあげて悲しみ泣き、招魂を行い、さらに、屋根に登って北に向かい、死者の名前を大声で呼び、天に帰る魂を呼び戻そうとします。

 その後、さらに詳細な手続があって、悲しみの舞踏を舞ったり、泣き女(魂呼ばいや悪霊払いを兼ねた、泣くことによって悲しみを表すことを、生業とする儀式師)を加えたりします。

 そして、その後も細々とした祭祀があるのですが、前述したように葬儀の終盤には土葬を行うということになります。

 ちなみに、日本は、儒教よりも仏教の影響のほうが強かったため儒教葬は、殆ど行なわれませんでしたが、朱子学に傾倒した水戸光圀は、儒教葬を奨励したと言われています。

 そもそも、儒教教団とは、このような原始儒教に基づく儀式を、人々に教えるために生まれたものだといわれています。

 なお、弔いのための祭祀はその後も続きます。

 なぜなら、子孫が祭祀を行えば、魂と魄が天地から戻ってきて復活すると考えられているからです。

 このように復活するためには、子孫が末永き保たれ、かつ子孫が先祖を敬ってくれることが必要です。

 子孫が長く保たれるためには、まず第一に政情不安があってはなりません。

 ゆえに、儒教においては「良い政治を求めること」が教義となります。

 「良い政治が必要である」と考える非常に珍しいといえば、珍しい教義と言えることでしょう。

 次に、子孫が先祖を敬ってくれないと祭祀が行われませんので、祖先崇拝も教義となるわけです。

 祖先崇拝とは、まず祖先は、とにかく偉いと考え、またゆえに偉い祖先から出た自分達も偉くて正しいと考えることです。

 加えて、その偉い祖先から出た、親族一同も偉いと考え、親族間の団結を固めるわけです。

 大陸は、平原が続くところです。

 いつ異民族が襲ってきて土地を追われるかわからないなかで、

不動産やその所有権などを頼れる財産と考えることもできず、

貴金属も奪われればおしまい、緊急時に役立つものは親族しかないということから、

魂の共済とともに、親族間の団結を固めるためのこのような考え方が出てきたものと思われます。

 儒教の祖先崇拝は、このような事情から生じたものですので、日本で考えられるよりも遥かに強固で厳格です。

 「親族間の団結」と前述しましたが、ここでいう親族とは、通常「宗族」のことを指します。

 これは、同じ姓を名乗る祖先崇拝を行う、数百から数万人規模の、父系血縁集団のことで、「氏族」といったほうがわかりやすいかもしれません。

 日本人が考えるような、せいぜい6親等内の、少人数の親戚とはスケールが全く違うものです。

 儒教の影響の強い地域では、姓の数が日本に比べて圧倒的に少ないのも、このような考え方によるものかもしれません。

 祖先崇拝は一族をまとめ、一族が基盤である農業の生産性をあげることにも寄与しました。

 そして、これほどまでに、血縁関係が強固であると、社会は安定します。

 過去に確定した、祖先の時代の人間関係をもとに、ほっておけば不安定で不確実になる、現在の人間関係を確定するので安定するわけです。

 また、このような考え方は伝統主義であり、この伝統主義から派生して世襲主義が生まれてきます。

 それゆえ、あらゆる地位は世襲されることとなり、子は、親の職業を継げるので、自分で自分の職業を開拓する必要がなくなるため、社会が安定するわけです。

 しかし、それでは社会が固定化してしまいます。

 とりわけ政治の世界においては、支配者の宗族でないと官僚になれないとなって、公平性を欠き、それが原因となって、政治の乱れを呼び寄せる可能性があります。

 そこで、官僚の役職と宗族を切り離すために、科挙制度や宦官制度が生まれてくることになります。

 科挙制度は、試験によってエリートを選抜し、官僚機構を構築する制度ですが、エリートは思い上がって勝手なことをし、政治が腐敗する可能性があります。

 そこで、エリート官僚に対する、カウンターバランス(対抗勢力、均衡勢力)システムとして、皇帝の私的補佐をする役目である、

去勢された宦官という役職を置き、科挙エリートと宦官が、相互にチェック・アンド・バランシズをするというシステムができたわけです。

 宦官は、論理的思考に優れているわけではないのですが、ペーパーテストだけが、よくできる官僚が、苦手な分野、

経験と直感が役立つ分野において、力を発揮しました。

 このように、流動性と固定性を上手く組み合わせた制度になっており、とりわけ科挙制度があるので、頭脳明晰でさえあれば、

どんな地位の出身者であっても、官僚になれる道が開けており、

不公平感を解消するためにも役立つシステムではあるのですが、

万能のシステムはないのが世の常で、この科挙制度にも欠陥がありました。  

 人はやる気があって精進さえすれば、誰でも学問などはできますので、

学問をすれば、甘い蜜が吸えるとなれば(昔の大陸の官僚は非常に甘い蜜が吸えたのでした・・。)、

誰しもがその道を目指すようになります。

 なので、勉強できる環境がある者が、大勢官僚を目指し、都市にやってくることになります。

 そうやって都市に人口が集中し、そして彼らは、農産物の生産に携わりませんから、農村の税負担によって、増殖する都市の生活が支えられることになります。

  また、誰でも官僚を目指せるといえども、やはり有利なのは官僚の子供達でしょう。

 勉学は、「金」と「時間」がないとできないもので、日々の仕事に追われ、時間がない人にとっては、勉学は物理的にできないということになります。

 その点、官僚の子供達は、親の財力もあり、また勉学に打ち込める時間、暇も十分あり、勉強できる環境が整っています。

 一方、農村の子息は、不利になり、官僚にはなれない、税負担は増えるということで、

しまいには、農村の人達が怒って暴動が起こり、

それが発端となって、王朝は打倒されるということが、300年に一度ぐらい起こり、それが歴史の中で繰り返されるということになります。

  なお、王朝が変わる場合、新たな王朝の正統性の根拠が必要となります。

  そのために、「天」という思想が使われます。

 祖先崇拝が、根底にある社会では、「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」となってしまうのですが、そうなると、新たな王朝の正統性がなくなっていまいます。

 そこで、まず各宗族の祖先をずっと遡ると、天帝にたどり着くと儒教では考えます。

 天帝は天のことで、絶対的支配者です。

 皇帝は、天の天命を受け、天子となり、また絶対的な天の天命を受けて支配するわけですから、

その支配は正しい、天子の行う政治も絶対的であるという論理のもとに君臨し、

「皇帝の祖先も皇帝でなければならない。」というロジックをかわすわけです。

 これなら、祖先が皇帝でないものも皇帝となれるわけです。

 この天の思想から、「易姓革命(えきせいかくめい)」、「湯武放伐論(とうぶほうばつろん)」

(「徳を失い、天が見切りをつけ、天命を失った王朝は、倒される」というような思想)

がでてくることになります。 

  ちなみに、日本の江戸時代の儒者山崎闇斎や山鹿素行などは、この湯武放伐論を、

「結局は臣が帝を倒すことを容認する屁理屈に過ぎない。このような理屈を認めていたから、中国ではコロコロと王朝が代わった。そんなことでは中華とは言えない。真の中華は万世一系の日本である。」とし、

このような思想が、尊王攘夷論を生じせしめ、江戸幕府を打倒し、明治維新へと向かう源流となっていきました。

 儒教の重要な考え方の1つを否定することで、新たな局面を切り開こうとしたわけですが、そのためには儒教をかなり勉強しなければなりません。

 しかし、いつの時代でも、世襲の安定した良い地位にあるものはあまり勉強しないものです。(^^;

 勉強などしなくても、よい血筋と遊んで暮らせる財産があるということをプライドとすることできますので。

 なので、江戸時代に、儒教を熱心に勉強した者は、

下級武士や町人、農村上層部の人達の、

いわゆる「マージナルマン(境界人:どの集団にも完全に所属できず、各集団にまたがって境界的に存在する人達)」だったといわれています。

 また、このような下級武士を中心とするマージナルマン達が、明治維新を担ったということも、ご承知のところだと思います。

 これらのマージナルマン達は、反面教師的にはとはいえ、儒教を熱心に学んだため、儒教の中核の考え方である

「学問をすれば誰でも出世ができる。統治者ともなれる。」という思想が、無意識的に腑に落ちていたのでしょう。

 それも、明治維新の原動力となったものと思われます。

 ところで、原始儒教は、前述したように魂の救済的な宗教らしいことを述べていたわけですが、

中興の祖というか、むしろ実質的な儒教の創始者である孔子は、

「怪力乱神を語らず(あの世のことは語りません・・。)」と述べ、

現実的な、この世のことしか興味がなかったようです。

 そして、その思想の中核が、「政治万能主義」、

「徳知主義(支配者の倫理性と努力が安定した国家運営を招き、それによりよき政治ができ、よき政治ができれば万事は解決する。)」と、

家族や血のつながり、祖先崇拝の重視です。

 儒教の基本的徳目は、五倫五常です。

 五倫とは、

父子の親(父子は自然的な親愛の情で結びついている。)、

君臣の義(主君と臣は道徳・倫理に基づき結びついている。)、

夫婦の別(夫婦は各々役割が異なる。)、

長幼の序(年長者を敬わなければならない。)、

朋友の信(友はお互い信頼しあわなければならない。)

のことで、

五常は、

仁(人を思いやること)

義(すべきことを利や欲に捉われずにすべきこと)

礼(上下関係で守るべきこと)

智(知識を重んじ学問をすべきこと)

信(誠実であること等)

の徳のことを指します。

 なお、小室直樹氏によれば、儒教が日本に最も多大なる影響を与えたものは、生活や思想面ではなく、

明治以降に取り入れられた官僚制

(ここでいう官僚制は、何も役所のものだけではなく、日本においてあらゆる組織に見られる官僚制を指しています。)

と、

科挙神話(ペーパーテストの点がよければ偉い人というように考える神話。小室氏の言葉では「受験制度」)

であるとのことです。

 また、本家の官僚制は、宦官というカウンターバランスシステムがあったわけですが、日本ではそれなくして官僚制を取り入れたため奇態な行動様式となっているとしています。

 小室直樹氏によれば、カウンターバランスシステムがなければ、必然的に腐敗するのが官僚制だということです。

 儒教は、このように魂の救済的な部分が少ないため、今回は、サナトロジーや死生観からは少しずれた話に思えるかのような形になっていますが、

ただ位牌などは、儒教の死生観が仏教に溶け込んだものであったりしますし、法事なども、儒教の影響を受けていますし、それ以上に、日本の習俗、価値観、社会制度にまで、深層的な影響を及ぼしているものですから、それらの由来を知るという点では、このような儒教理解も必要になってくるものと思われます。

参考文献)『日本人のための宗教原論』 小室直樹著 徳間書店 2003年
『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 ちくま文庫 2006年

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仏教哲学的サナトロジー:空と唯識の思想

 日本人になじみが深い仏教哲学的な、死生観をみてみたいと思います。

 まずは、その前提となる仏教の要の論理である「空」について考えてみます。

 なお、本稿は、社会学者小室直樹氏(1932-2010)や、花園大学教授佐々木閑氏などの、現代宗教学としての仏教学や、宗教社会学的な学説を参考にしたものに基づくものであることをあらかじめお断りしておきます。

 仏教及び宗教学としての仏教学は、非常に多くの宗派や学派があり、思想的にまことに多様で、各宗派や各学説によって死生観や空等の概念の捉え方も様々で、下記に述べるような死生観等が唯一の捉え方ではなく、あくまでも宗教社会学的な学説に基づく、たくさんある見解の中の一つであるということもあらかじめご了承頂ければと存じます。

 なお、下記に、伝統仏教各宗派の死生観や、その他スピリチュアルな死生観に関する詳細な研究報告が掲載されていますので、それらの点について、ご興味ある場合は下記をご参考頂ければと存じます。

http://www.circam.jp/reports/02/ (研究員レポート 宗教情報センター研究員藤山みどり氏著)

 例えば、パソコンの自作を考えてみます。

 パソコンを自作する場合、まず、パソコンショップにいって、マザーボードやメモリー、ハード・ディスク、ケーブル、コンセント、キーボード、ディスプレイなどの部品を買ってきます。

 この段階で、パソコンがそこに「ある」といえるでしょうか?

 普通に考えれば、部品があるだけでパソコンがあるとはいえないことでしょう。(空の状態)

 しかし、部品を組み立てると、パソコンとなり、パソコンはそこに「ある」ということになります。

 また、部品をバラせば、ただの部品に逆戻りということになります。結局、パソコンはそこにあるのでしょうか?

 部品を使って、組み立てればあるし、解体すればないということになります。

 つまり、「組み立てる」という因縁

(この場合の「因」は、組みたてようとする人間の意志、「縁」は、各種の部品を指します。)

によって、「あり」もするし、「ない」ともいえます。

 空は、確かに無ではあるのですが、

「因縁」によってパソコンという「有」を生みだすことができる

(空即是色・色とは「形あるもの」という理解でよいかと思います。)

ということになります。

 また、パソコンという実在は、解体すれば、また部品に戻り「無」となります。(色即是空)

 無でもなければ有でもない、無でもあるし、有でもある、

組み立てるという因縁を介在すれば、有にでも無にでもなるというのが、

空論であり、空論においては、全ての実在するかのごとくに見えるものは、このような空であるとします。

(という理解を、私はしております。)

 よって、「全ては、空であると認識する人間の識」

(「『意識』・『未那識(まなしき)』・『阿頼耶識(あらやしき)』」、

ユング心理学の用語に置き換えると、「『意識』・『個人的無意識』・『集合的無意識』」のようなものと仮にしておきたいと思います。

なお、ユング心理学については、拙稿、http://terminalsupport.blog.jp/archives/1585284.html をご参考頂ければと存じます。)

以外に実在は、ないとなるわけです。

 このように実在するものは、「識」以外にないにもかかわらず、

(ただ、この「識」も現象でしかなく、実体はなく「空」であり、夢、幻のようなものであり、究極的には、その存在も「空」とのことです。)

 実在すると思うがごとくの妄想をするために苦悩が生じ、煩悩が生じるので、この妄想を取り払えば、静寂を得られるということになります。

 なお、上記の阿頼耶識は、肉体が滅した後も残り、輪廻(六道輪廻)するとされています。

 しかし、阿頼耶識は、種子(人間の行為の痕跡)が蓄積する(これを薫習(くんじゅう)という)ことにより、

常に変化する(つまり無常)ので、唯一の実在である阿頼耶識もまた無常であり、常なるものは何も無いということになります。

(阿頼耶識もあくまでも種子により、変化するので永遠不変なものは何もないということになるからです。)

 ただ、阿頼耶識は、肉体が滅した後も残るものですから、あらゆるもののうち、最も「常(不変)」に近いということになります。

 よって、不変に近いものがあるがゆえに、人はこれを不変であると感じ、これを我と思い込むわけですが、この我に執着する心を未那識といいます。

 阿頼耶識・未那識はともに、顕在意識の下にある「無意識」といっていいものですが、阿頼耶識は、この未那識よりもさらに深いところにあるもので、まさに深層心理的な部分ということになるかと思います。

(なお、阿頼耶識のさらに奥に、けがれが無い無垢識・清浄識、あるいは真如である真我、如来蔵、心王である「阿摩羅識(あまらしき)」があるとする考え(天台宗等)、さらに奥に、「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」があるとする考え(真言宗)もあります。)

 ですので、諸行無常、諸法無我であることを知るには、深く深層心理にまで降りて行くというような修行(瞑想等)が必要になってくるということになるようです。

 なお、阿頼耶識に蓄積される種子は、生まれてこのかたのものから、生まれる前のずっと前のものも全て蓄積されており、もっといえば、この世界のはじめの原意識的なものまでが蓄積されているとされています。

 深層心理学者のユングの学説では、無意識を、「個人的無意識」と「集合的無意識」とに分けるのですが、「未那識」は、「個人的無意識」、「阿頼耶識」は、「集合的無意識」に似ているところがあるように思えます。

 唯識思想は、瑜伽行という瞑想的方法によって、心のあり方を変化させ、悟りに到達しようとすることが特徴のひとつといわれています。

 そして、その悟りの行く先が、六道輪廻から離れた、涅槃(ニルヴァーナ)寂静の境地ということになります。

 この境地に至ると、もう苦しみ多き六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)には、二度と帰ってこないとのことです。

 輪廻とは、宇宙には異なる複数の有情(六道の生命あるもの全て。)の世界があり、生きとし生けるものは、そのいずれかを繰り返し転生していくという考え方です。

 なお、前述いたしました「因縁」の、「因」とは、ものごとに変化をもたらす、「主要因」のことをいいます。

 「縁」は、「補助要因」です。
 
 そして、これらが相互連関(中観派の解釈:中観派の解釈では線型連関とはみない)し、全ての現象が作られるということになります。

 もし、パソコンに意思があれば、

「自分は、独立固定的な存在である」と、思っているかもしれないのですが、

実は、そうではなく、因縁によって

(つまり、因縁に因っているわけですから、独立して何かができる存在ではないということになります)

 あるときは、パソコンになっている状態、あるときはバラバラな部品の状態、あるいは仕掛品的な状態にすぎない、もともと独自固有・固定性のない「無我」「無自」「無常」であるということです。

 そうであるのに、

「自分は独立固定的な存在である」

とパソコンが思って妄想し、そこに執着すると、その執着は誤りであるということになります。

 そもそも、当のパソコンは、独立固定的な存在ではないわけですから、執着すべき原因(独自固有・固定性)がもともとないわけです。

 えてして、独自固有・固定性(そんなものはもともとはないですが)に執着すると、それが種子となり、

阿頼耶識に蓄積され、苦

(認識が真理からずれますので苦しむということになります。希望と現実が違うと悩みますね。そういうことだと思います。)

という結果を生むわけですが、

よく考えると、独自固有・固定性はなく、よって執着するものもなく、したがって本来は苦もないということになるわけです。

 擬人化されたパソコンがもし、独自固有・固定性に執着し苦しんでいる

(ずっと今の新品パソコンのままでいたいとか錆びたくないとか、古くなりたくないとかで悩んでいる。)

としたならば、

「自分は、単に因縁により、あるときはパソコン、あるときは、バラバラな部品、あるときは、仕掛品状態にあるだけの無常・無自・無我である。」

と心底気付き、それを体感できれば、悩む必要性もそもそもないということになります。

 このような、哲学的で難解な空論的な論理に比べ、

原始仏教は、もう少し素朴だったものと考えられていますが、諸行無常等をより精緻に説明するために、

後世の人達(とりわけ龍樹(りゅうじゅ:ナーガールジュナ))が、深い瞑想をしたうえで心の動きをとらえ、それを体系化・理論化して記述したのが空観(空論)です。

 空観をまとめあげたものが、龍樹著の『中論』で、龍樹を祖とする一派を、中観派といいます。
 
 中観派は、大乗仏教の教理を知的追求した一派で、学究者でもあったといえましょう。

 ですので、空論は、学問的といってもよく、その上より深く体感するためには、瞑想等の修行も必要になってくるため一層、庶民には理解困難となります。

 そのため、仏教伝来から今日まで、このような精緻な仏教論理等が庶民に正確に理解された時期はなかったのではないかと考えられています。

 とりわけ仏教伝来時には、詳細な翻訳書などもなく、全てテキストは漢語で書かれていたわけですから、文字の読み書きができなかった人が多かった当時、仏教論理を理解していたのは貴族等の一部の知識人だけということになります。

(ちなみに、当時の僧は国家公務員でした。)

 庶民に、仏教が浸透するのは、伝来から相当後の鎌倉時代ということになります。

 鎌倉仏教、とりわけ、阿弥陀信仰は、空論のような難解な論理を漢語で書かれたテキストで知ったり、特殊な瞑想法等を実践する必要性はありませんでした。

 阿弥陀信仰は、阿弥陀仏がいる仏国土(これを極楽浄土といいます。浄土とは、清浄で清涼な仏の世界。)に転生(輪廻の一種ですが、これを往生といいます。)すれば、次の段階にて解脱し成仏できるというものです。

 つまり、もう一度だけ、極楽というところに転生し、輪廻の中にいなければならないが、しかし、その次はもう輪廻しませんよ、という論理です。

 では、極楽往生するためにはどうすればいいのかですが、当初は、1.やはり修行する(六波羅蜜という修行)2.仏塔を信仰する3.念仏を唱えるの3つのことをしなければならないとされていました。

 が、後の阿弥陀信仰経典においては、3.だけ残り、つまり念仏さえ唱えていれば、極楽往生できるという形に変形されました。

 原始仏教は、現象及び心を冷静にまた科学的ともいえる態度で観察し、現象システムと心のシステムの関係を理詰めで明らかにしました。

 そして、自身の力で、苦の原因である煩悩を滅し、それを乗り越えて行こうという提案を行ったものだと思われますが、大乗仏教は、それさえも「空」、「幻想」だとします。

 そして、現象及び心のシステムの奥の院の奥の院は、理詰めで明らかにして知ることができない「神秘」だとし、本当の法則は、超越的な神秘であり、人智では計り知れない、それが「空」だとしています。

 ゆえに、大乗仏教経典「般若心経」等においては、神秘もみとめよう、祈ってみようというスタイルをとり、般若心経も、祈りの言葉、聖なる呪文である真言(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶)で締めくくっています。

 このような論理から、大乗仏教には、真言や念仏等を重視し、それにより救われるという思想があるものと思われます。

 ただ、法然(浄土宗開祖)は、念仏を唱えるということは、修行だと考えていたようです。

 しかし、これを修行だと考えると、何万回唱えないと往生できない等ということにもなってきて、色々とノルマが出てきたりもします。

 対して、親鸞(浄土真宗開祖)は、念仏は修行ではないし、そもそも唱える必要もない。

 南無阿弥陀仏と心の中で願うだけでよく、阿弥陀仏と心の波長を合わせ、阿弥陀仏の主体性にまかせれば往生できるし、そうすることの方が正しい(絶対他力)とします。

 また、仏教では、基本的に解脱するためには、自身の努力で修行をしなければならない(自力本願)のに対して、

(ゆえに、解脱できる人とできない人という差が生じる。)

浄土真宗においては、阿弥陀仏の主体性により救済が決まるということですから、阿弥陀仏の前では皆平等、もちろん、悪人も善人も平等(悪人正機説)という論理となります。 

 いずれにしても、南無阿弥陀仏と心の中で念じればそれだけで救済される、しかも、悪人も善人も関係なく救済されるという仏教等

(阿弥陀信仰とともに、法華経を信仰する宗派も鎌倉期に現れ、こちらも空論や唯識論のような庶民には難解と思われるような理論を必要とするものではなかったため庶民に受け入れられていったものと考えられています。)

が登場するに至って、初めて庶民の中に、仏教信仰というものが根付くことになったといわれています。

 ちなみに、密教(真言宗)は、修行をするから仏陀(完全な悟りを開いた聖者)となるではなく、仏陀であるから修行ができる、すなわちもともとありとあらゆるものは仏陀であり、それを確信するだけでよしとします。

 金剛頂教によると、真言(マントラ)を唱え、心の中に仏があると念じ、手で印を結ぶことによって、この身このまま成仏する(即身成仏)とされています。

 空海が日本にもたらした真言密教は、仏教の最終進化形だったわけですが、ヒンドゥー教の要素も取り入れた神秘主義的な面もあり、加持祈祷により現世利益を叶えるという側面もあったため、貴族を中心に日本に広まりました。

 また、空海が全国で慈善事業を行い、庶民の心を掴んだこともあって、弘法大師信仰も生んだのですが、やはり、教義そのものが非常に難しいことと、密教というぐらいですから、その真髄は、師から弟子に秘密裡に伝播されるという性質があり、真の意味や技法が庶民に広まるということはなかったといえることでしょう。

 なお、本場インドの仏教は、密教がさらにヒンドゥー教化され、見分けがつかなくなった為と、イスラム勢力のインド侵入により、僧達が、周辺の東南アジアに逃避したため、12世紀頃に消滅するという憂き目にあいます。

 ただ、最近はインドでもまた、諸事情より仏教の勢力が広まってきているようです。

参考文献)『日本人のための宗教原論』 小室直樹著 徳間書店 2003年
『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 ちくま文庫 2006年
『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』 佐々木閑著 NHK出版 2014年

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遺言の基礎知識:斜線で消した遺言書は無効

 遺言者が故意に、その遺言書の全体の、左上から右下にかけて、赤色のボールペンで1本の斜線を引いた場合、その遺言は無効となるという、最高裁の判断が出ました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151120-00000134-jij-soci
(ペンで斜線、遺言書無効に=「故意に破棄」と判断―最高裁) 

 判決文は、以下に全文が出ています。

 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/488/085488_hanrei.pdf (但し、PDFファイル)

 遺言には、普通方式(自筆証書遺言・公正証書遺言・秘密証書遺言)と、

特別方式(危急時遺言・隔絶地遺言)とがあります。

 特別方式は非常に特殊なものなので、以下普通方式を中心に見ていきたいと思います。

 遺言者が、遺言書の全文・日付・氏名を「自書」して、

(ですので、パソコンで作成しプリントアウトしたようなものは無効となります)

これに捺印する方式で作成される遺言を、『自筆証書遺言』といいます。

 自筆証書遺言は、遺言内容を他人に知られることもなく、費用もかからず手軽ではありますが、ただ、形式が厳格に決まっていて、訂正をする場合なども、その厳格な形式によらなければ、無効とされます。

 赤のボールペンで、斜線を引いた場合はどうなるのかは、争いがあったわけですが、今回の判決で、この場合も無効になると判断されました。

 また、自筆証書遺言は、偽造変造隠匿の恐れが高く、実際にトラブルも多いため、これ以外の方法で遺言をされるという方も多いです。

 法律に精通していないと、無効になりやすく、また保管方法等にも気をつけないと、偽造変造隠匿の恐れも高いため、

自筆証書遺言を残したいという場合は、費用はかかってしまいますが、できる限り、法律等で厳格な守秘義務が課されている行政書士等の専門家によるサポートを受けるようにするとよいものと思います。

 次に、公証人が、公正証書の形にて作成した遺言を、『公正証書遺言』といいます。

 証人(推定相続人などはなれないなど、証人の資格要件が厳格です)2人が必要であったり、

公正証書作成手続に慣れていないと、手続が煩雑に感じられたり、

遺言内容を公証人や、行政書士等の作成サポートを受ける場合は、当該行政書士に確認してもらう必要があったり(ただ、これらの専門家には、法律で厳格な守秘義務が課せられています)

自筆証書遺言に比べて、費用がかかったりするデメリットはありますが、

偽造変造隠匿の恐れは、自筆証書遺言に比べ少なく、また、長年裁判官等を勤めた方がなさっている法律のプロ中のプロである、公証人がチェックして作成するものですので、無効となる可能性も非常に少ないものだと思います。

 手続が面倒だと感じられる場合は、もちろん、費用はかかってしまいますが、行政書士等の専門家による作成手続サポートを受けることもできます。

 なお、http://www.koshonin.gr.jp/osi.html#20 によると、

 平成26年中に、全国で作成された遺言公正証書は、ついに10万件を超え、10万4,490件に達し、前年に比べると8,470件の増加だったということです。

 次に、遺言内容を記載した証書に(パソコン等によって作成しプリントアウトしたものも可)、

遺言者が署名捺印し、これを封筒に入れ、証書に捺印したものと同じ印にて封印し、

この封筒を公証人と、2人の証人の面前に差し出し、公証人の署名捺印をもらうことで有効とされる遺言が、『秘密証書遺言』です。

 遺言内容を秘密にできますが、自筆証書遺言と同様、盗難紛失のおそれがある、資格要件の厳しい証人が2人以上必要である等のデメリットもあり、秘密証書遺言で遺言するというケースは、他の二つの普通方式の遺言に比べて少ないようです。

 なお、公正証書遺言以外は、偽造・変造防止のため、被相続人の死亡後に遺言書を発見した者は、裁判所の検認を受ける必要があります。

 また、その遺言書に封印がしている場合は、勝手に開封することができず、家庭裁判所にて開封手続を行なう必要があります。

 どの方式が望ましいのかは、ケース・バイ・ケースだと思いますが、

いずれの方式で行うにしても、無効とされたりしないよう、また偽造変造隠匿のリスクを軽減するためにも、より慎重に、できれば行政書士等の専門家によるアドバイスやサポートを受けたいところだと思います。

行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

Blog:http://sasakihoumukaikei.blog.jp/(大阪・寝屋川:佐々木行政書士・マンション管理士事務所ブログ)
 
対応可能地域-大阪府中部・北部:寝屋川市・門真市・守口市・大東市・四條畷市(四条畷市)・東大阪市・大阪市・枚方市・交野市(これ以外の地域も対応可能な場合があります。ご相談くださいませ。)

業務依頼・講演、講義、遺言・相続・終活、死生学、デス・エデュケーション、グリーフワーク、メンタルヘルスケア、管理職、士業者のためのカウンセリング技法等の出張教室、研修、執筆依頼・取材等のお問い合わせは、E-MAIL fwkt0473@mb.infoweb.ne.jp まで
 

民俗学的サナトロジー

 民俗学者の赤田光男帝塚山大学名誉教授は、死者が先祖となる過程について、「蘇生」「絶縁」「成仏」「追善」という4要素を経て、そのたびに儀礼・供養を繰り返し、それにより死者は先祖となっていくとしています。

 命終した人の蘇生を願う儀礼が、「蘇生儀礼」で、親族が空の方向や井戸の底を覗き見しながら、死者の名を呼び、霊魂を肉体に呼び戻すといったような儀礼が各地に見られるようです。

 儒教の招魂儀礼に似ているものと思われます。
 
 葬儀の出棺の際に死者が使用していた茶碗などを門口で割る、近隣の死者の報を耳をふさいで聞かないようにするといったような儀礼が「絶縁儀礼」で、これは、死者との関係を絶とうとするものです。

 蘇生儀礼で、死者の霊魂が肉体に戻らないとわかると、愛慕の念が恐怖の念に変わるというところから、このような儀礼が生まれたものと思われます。

 次に、葬儀を終えた後、死者を無事あの世に送り出す儀礼を「成仏儀礼」といい、日本では、仏教儀礼として行われる場合が多いようです。

 燕が、無事死者をあの世へ送ってくれるようにと、墓地に燕の模型を置いたりするといったような伝承も聞かれます。

 そして、いわゆる法要、法事等を「追善儀礼」といいます。

 忌明け以降の、百か日・一周忌・三回忌・七回忌などの年忌法要を指し、三十三回忌~五十回忌まで行われる場合が多いとされています。

 この追善儀礼を経て、「弔い上げ」と呼ばれる、死者に対する祭祀の終了を意味する儀礼が行われる場合もあり(三十三回忌又は五十回忌をもって弔い上げとする場合が多いようです)、

 これにより、死者が先祖となるとする習俗が多いと民俗学的には考えられています。

 このように長い期間をかけて儀礼を行うことにより、死後直後の死者の荒ぶる霊魂が静まり浄化され、神聖な先祖へと昇華するとの考え方に基づくものだとされています。

 また、百か日・一周忌・三回忌にも、儒教の影響が見られますが、中国仏教に儒教が取り込まれ、それが日本にも伝わったからだと考えられています。

 七回忌以降の年忌法要は、「十三仏(冥界の審理を行うとされる13の仏)信仰」等の影響を受けた、日本独自のものと言われています。

 なお、仏教の多くの宗派では、死後49日まで、死者は、「中陰(中有)」という状態にあり、この世とあの世をさ迷うと考えているようです。

 この間、死者は、7日ごとに、閻魔などの10名の冥界の王・総司達の審理を受け、49日に、輪廻先が決定されるとされます。

 死後7日目の「初七日」から、49日目に行われる「七七日(なななのか:四十九日、満中陰ともいいます。)」、

100日目に行われる「百か日」までの忌日法要は、遺族が故人の成仏を祈り、極楽等の浄土(清浄で清涼な仏の世界)に赴けるよう願う、故人に善を送る追善供養です。

 「七七日」に忌明け法要を行い、納骨埋葬するという日程が通常のようです。

 なお、「百か日」は、卒哭忌(そつこくき)ともいい、哭(な)いて過ごした日々を、卒(お)えるという意味があり、もとは、儒教の『礼記(らいき)』という書物に由来があるもので、前述したように、これを仏教が取り込んだものだとされています。

 深い信心を持った人は、命終とともに、すぐに浄土に赴くため、中陰はないとし、追善も必要なしとする仏教の宗派もあります。

 ただ、その場合でも、報恩感謝のため、また故人を偲び、さらに人生を見つめなおす等の意味合いから儀式が行われる場合もあります。

 また、これらの儀式は、死者の霊を慰めるといったような宗教的意味、民俗学的意味、故人の逝去を告知し、別れの儀式を行うといった社会的意味だけでなく、臨床心理学的意味、すなわち、残された者の悲しみを慰めるといった、グリーフ・ケア(悲嘆のケア)としての役割もあるものと考えられています。

 次に、アイヌの民俗学的死生観をみていきたいと思います。

 アイヌの人達は、死者は、地下にあると信じられていたポクナモシリと呼ばれる他界に赴き、現世と全く同じ生活をし、しばらくの間そこに留まり、また再びこの世に誕生するという死生観をもっていたようです。

 なお、神々が住まう天にあるという世界は、カムイモシリ、地にある人間が住む現世の場所は、アイヌモシリと呼ぶとのことです。

 民俗学的には、大きくわけて、二つの他界(あの世)観があるとされています。

 ひとつは、死者の霊が近隣の山にいて、子孫を見守り、盆正月のような時期に家に帰ってくるという「山中他界観」です。

 そのような死者の霊が留まる山として、恐山(青森)、高野山(和歌山)などがあるとされています。

 もうひとつは、山ではなくて、海に死者の他界があるとする、和歌山の補陀落渡海(南海のかなたにある浄土)観や、沖縄のニライカナイ(東海のかなたあるいは、他の伝承によっては地界又は海底にあるとされる異界)観のような、「海上他界観」です。

 なお、ニライカナイは、琉球列島各地の伝承に伝わる異界で、ニライカナイの最高神である東方大主(あがりかたうふぬし)が治める神界であり、理想郷であり、豊穣や生命の源であるとのことです。

 伝承によると、人の魂は、ニライカナイからやってきて、死を迎えるとニライカナイに帰っていき、祖霊となり、また死後七代経つと、祖霊は神となり、守護神となって村に戻ってくるとのことです。

(ただ、伝承によっては異なる内容となっている場合もあります。)

 そのため、沖縄では今も、祖霊、守護神つまり、神となる、あるいは神となった祖先を非常に敬い、祖先崇拝を非常に大事にしているとのことです。

 他にも、天上他界観や、地下他界観(日本神話における黄泉、前述のポクナモシリ等)などもありますが、

民俗学的他界観は、次元の異なる空間世界に行くというのではなく、人里離れたこの世の果てに、他界があるという考え方がベースになっているものが多いようです。

参考文献): 『人は死んだらどうなるのか?』 斉藤弘子著 言視舎 2015年
『手にとるように民俗学がわかる本』岸祐二著 かんき出版 2002年
 『図解雑学 こんなに面白い民俗学』八木透・正岡伸洋編著 ナツメ社 2005年

  行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

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ミュージック・サナトロジー

 旧約聖書のサムエル記上16章23節に、「ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」とあります。

 古くから、音楽には心の痛みを癒す力があることが知られ、重要なケアとして用いられていたことが伺えます。

 音楽によって、終末期や臨死期にある患者の精神的、肉体的苦痛を緩和する療法は、古代ギリシャの神殿や中世の修道院などで実践されていたとのことです。

  米コロラド州の施設で学資を稼ぐために、アルバイトとして老人介護に当たっていた、当時学生だった、現在は著名ゴシック・ハープ奏者で、歌手のテレーズ・シュローダー・シェーカー(Therese Schroeder=Sheker)氏は、

心身ともにもがき苦しむ、臨死の患者に対してとっさに、彼の頭を抱きながら、グレゴリオ聖歌を歌ったところ、その患者は穏やかな表情となり、安らかに旅立っていきました。

 臨死の患者を前に、とっさにとったこの経験から彼女は、おそらく、まるで神話の世界かのような神聖な何かを感じ取り、非常に深いインスピレーションを受けたのでしょう。

 そこで、彼女はこのようなターミナル音楽療法的な臨床死生学を、「音楽死生学(Music-Thanatology)」と名づけ、1970年代前半から活動をはじめ、

1990年代初頭に、その全体的なプロジェクトである、「魂の休息の杯」(The Chalice of Repose Project)と呼ばれるプロジェクトを確立させたとのことです。

 現代でも、世界各地で、音楽死生学に基づく音楽療法を行う人達がいて、その中でも、アメリカの「魂の休息の杯」(The Chalice of Repose Project)は、

30年以上にわたって、ホスピス・緩和ケア、在宅ケアの場で、終末期・臨死期にある、患者やその家族に、ハープ音楽と祈りとしての歌を提供する活動(このような活動は、「リラ・プレカリア(Lyra Precaria:祈りのたて琴)」と呼ばれる場合があるようです。)を続けてきたそうです。

 専門のトレーニングを受けた音楽療法家が祈りを込めながら、患者の好きな音楽を、

(好きな曲であっても、場合によっては、悲しい思いを誘発することもあるので、思い入れのない、患者のなじみの無い音楽を、先入観を持ちにくいラテン語などで歌い、奏でるという方針を採る場合もあるようです。)

患者の呼吸を気遣いながら、患者の容態と呼吸に合わせるように静かにゆっくりと奏でる、

このようなターミナル音楽療法の効果として、不眠の改善、呼吸の安定、表情の緩和、心理的不安の軽減、心拍数及び体温の好転、

さらにこのような身体面への効果のみならず、

死への恐怖の軽減、孤独感・疎外感の融和、関係性の修復及び強化、許し・和解など、スピリチュアルケア的な効果についても、報告されているとのことです。

 ハープの音色が、安らぎを与えることは、脳波からも確認されたという報告例もあるようで、また患者だけではなく、その家族の苦悩をも和らげる効果があるとの報告例もあるようです。

 日本では、音楽死生学に基づくターミナル音楽療法はまだ一般的でなく、

諸外国で報告されているような有効性が、日本でもあるのか、文化的違いによる影響はあるのか等の信頼のおける臨床実証及び研究発表が待たれるところですが、

日本においても、すでにターミナル音楽療法の実践をされておられる方々はもちろんおられ、やはり、患者の表情が穏やかになり、呼吸状態が安定したり、痛みが和らぐこと等の効果のある臨床例が報告されているようです。

 音楽の持つハーモニーが、極度のストレスによる精神的な動揺を鎮め、心的な調和を回復する一助になるとのことです。

 また、アルフォンス・デーケン上智大学名誉教授によれば、ターミナル音楽療法は、前述のような、身体的・精神的治療効果だけではなく、

音楽により描き出されるイメージが、心を閉ざしがちになる患者との対話のきっかけとなって、深みのあるコミュニケーションを生み、思いがけない出会いにつながるなど、心の交流の輪を広げる効果もあるとのことです。

 現在のターミナル音楽療法は、聖書の伝統に則って、聖歌や祈祷歌、子守歌、童謡を、ハープの独奏により演奏する場合が多いようです。

 このように、ただ一人のために奏でられる音楽を、「プリスクリプティヴ・ミュージック」といい、また「リラ・プレカリア(祈りのたて琴)」では、これを「パストラル・ハープ」ないし「パストラル・ミュージック」と呼んでいるようです。

 その他の曲や、ギター、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ、オルガン、木管楽器、金管楽器、日本琴等の日本の楽器等のハープ以外のその他の楽器で行われた場合や、CDで音楽を聴いてもらう等の場合も、効用があるものと思われ、多様な形態での研究・実践・音楽療法家教育等が行われることを期待したいと思います。

 音楽は、心の最も奥深いところ、ユングの言葉を借りれば、集合的無意識に響き、神聖な世界の扉を開け、そこに分け入ることができるものなのかもしれません。

 ターミナル音楽療法の実践においては、それがより一層際立つこととなり、その臨床の場は、奏でられる音楽から溢れ出るような、まばゆい光と祈り、そして言葉に表しようがない愛に抱かれた、荘厳な神話の世界そのものとなります。


参考文献)
http://lyraprecaria.kibounoie.info/ (『リラ・プレカリア(Lyra Precaria)は祈りのたて琴』)
http://www.nhkso.or.jp/library/kaleidoscope/3488/ (N響 『死に逝く人を癒す音楽の力死を超えて未来に向かって心を開く』アルフォンス・デーケン)
http://www.47news.jp/47topics/ningenmoyou/40.html (47NEWS 地球人間模様『ハープを奏でて最後を看取る』)
http://www.hospicecare-hiroshima.org/modules/pico/index.php/content0017.html (広島ホスピスケアをすすめる会『霊的な痛みとハープによる祈りとしての音楽』
http://www.hospicecare-hiroshima.org/modules/pico/index.php/content0020.html (広島ホスピスケアをすすめる会『人(患者さん)と音・音楽』)
https://www.youtube.com/watch?v=O_K0a9KP9u0 (Hospice Music Thanatology http://CNS-CARES.org)

 行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

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