プラトン(紀元前427-347)は、死とは肉体と霊魂が分離することであり、
肉体は消滅しても霊魂は死なず不死の存在となり、
逆に死により、真の実在に達することができるため、
死は忌みべきことではなくむしろ喜ばしいものだというような死生観を論じています。
肉体は消滅しても霊魂は死なず不死の存在となり、
逆に死により、真の実在に達することができるため、
死は忌みべきことではなくむしろ喜ばしいものだというような死生観を論じています。
デカルト(1596-1650)は、肉体は死ぬが、考える主体である精神は死なないと述べています。
カント(1724-1804)は、まず「人間は、道徳的法則の命令により、完全なものとなることが義務づけられている。」とします。
しかし、道徳性の完成は、現世だけの人生では不可能であり、
それは理念として、無限の進行のうちにのみ見出され得、
不完全である被造物たる人間には、完全性に向かって永久に進むことのみが許されており、
完全性への過程において、霊魂として来世まで存続することを要求するといいます。
それは理念として、無限の進行のうちにのみ見出され得、
不完全である被造物たる人間には、完全性に向かって永久に進むことのみが許されており、
完全性への過程において、霊魂として来世まで存続することを要求するといいます。
これを「霊魂不滅の要請」といいますが、このように、カントは自らの哲学的学説上の必然的な要請として、魂は不死であるとしています。
論理からだけではなく、瞑想体験や神秘体験等からも死生観を導き出した、仏教の僧やその他の宗教の聖職者、神秘家等とは異なり、
デカルトやカント、後述するエピクロス、ホーキング氏などは、純粋に哲学的な論理からのみ、自身の論理の結論を導きだしたものだと思われます。
デカルトやカント、後述するエピクロス、ホーキング氏などは、純粋に哲学的な論理からのみ、自身の論理の結論を導きだしたものだと思われます。
ゲーテ(1749-1832)は、
「なにものも在るのでなく、なにものも成ったのでなく、すべては、つねに成りつつある、変化の永久の流れの内には、なんらの静止もない。」と述べ、
不断に活動し、変化し、しかもその内にあって自己をつねに維持し、
持続せしめ得る程度に応じて、存在はより完全であると考えました。
「なにものも在るのでなく、なにものも成ったのでなく、すべては、つねに成りつつある、変化の永久の流れの内には、なんらの静止もない。」と述べ、
不断に活動し、変化し、しかもその内にあって自己をつねに維持し、
持続せしめ得る程度に応じて、存在はより完全であると考えました。
ゲーテの説では、完全性を目指す潜在力が人間にはあり、
またその力は、現実に完全性の実現を目指して作用し、
そしてそれは死を超えて、永久の流れのうちに存在するとのことです。
またその力は、現実に完全性の実現を目指して作用し、
そしてそれは死を超えて、永久の流れのうちに存在するとのことです。
またゲーテは、
「死を想うと心が全く穏やになる。なぜなら、私たちの霊魂は不滅であると知っているからだ。
太陽は日没するが、ただそれは、人間の目にはそう映るだけで、実は没せず、人間の見えないところで輝き続けている。
生命もこれと同じことで、死によって没したようかのように見えて、実は見えないところで輝き続けている。」
と霊魂の不滅をこのようなたとえで述べています。
「死を想うと心が全く穏やになる。なぜなら、私たちの霊魂は不滅であると知っているからだ。
太陽は日没するが、ただそれは、人間の目にはそう映るだけで、実は没せず、人間の見えないところで輝き続けている。
生命もこれと同じことで、死によって没したようかのように見えて、実は見えないところで輝き続けている。」
と霊魂の不滅をこのようなたとえで述べています。
日本におけるサナトロジーのパイオニアで、哲学者であるアルフォンス・デーケン上智大学名誉教授によれば、
現世と来世は、序曲とそれに続くオペラのような密接な関係でつながれており、
永遠の生命は、現世からすでに始まっていて、死は終末ではなく、
神の無限の愛に包まれる、新しい生命の始まりであるという、
キリスト教の教えに基づくこのような希望が、クリスチャンの信仰の根底を支えているとのことです。
現世と来世は、序曲とそれに続くオペラのような密接な関係でつながれており、
永遠の生命は、現世からすでに始まっていて、死は終末ではなく、
神の無限の愛に包まれる、新しい生命の始まりであるという、
キリスト教の教えに基づくこのような希望が、クリスチャンの信仰の根底を支えているとのことです。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」
(『ヨハネによる福音書』第11章25~26節 『口語 新約聖書』日本聖書協会1954年より引用)
アルフォンス・デーケン名誉教授によれば、このイエスの言葉が、臨終を迎えるクリスチャンにとって最も慰めに満ちた言葉となるであろうとのことです。
人間には、この一生で使いきれないほどの潜在能力があり、
この創造的な無限の能力を発見し、自己実現を達成し、無限の成長をすることが、人生の最大の課題であり、
この無限の能力を用い、無限の成長をするためには、命も無限でなければならず、その過程は当然に死後にも及ぶものであるとアルフォンス・デーケン名誉教授はいいます。
この創造的な無限の能力を発見し、自己実現を達成し、無限の成長をすることが、人生の最大の課題であり、
この無限の能力を用い、無限の成長をするためには、命も無限でなければならず、その過程は当然に死後にも及ぶものであるとアルフォンス・デーケン名誉教授はいいます。
ゆえに、アルフォンス・デーケン名誉教授によれば、死後の生命を信じるということは、今現在の人生に意義を見つけることにもなり、
このことを指してゲーテは、「来世に希望を持たない人は、すでに現世で死んでいるようなものだ。」とも述べたとのことです。
このことを指してゲーテは、「来世に希望を持たない人は、すでに現世で死んでいるようなものだ。」とも述べたとのことです。
もちろん、アテネの快楽主義的哲学者で唯物論者であるエピクロス(紀元前341〜270)のように、死後生を認めない哲学者もおります。
エピクロスは、死に関して、「我々が、現に生きている間は、死は存在せず、また、現に死が存在するときは、我々はもはや無い。」といい、ゆえに「死は、我々にとっては無関係である。」と述べています。
エピクロスの哲学はここから発し、ゆえに無関係の死を不安に思う必要はなく、
生きているうちに快楽、といっても、欲望のままに生きるという意味での快楽ではなく、それをコントロールして人生を送ることに精神的な快楽があり、
このような精神的快楽を追求すべきだとの快楽主義を提唱しています。
生きているうちに快楽、といっても、欲望のままに生きるという意味での快楽ではなく、それをコントロールして人生を送ることに精神的な快楽があり、
このような精神的快楽を追求すべきだとの快楽主義を提唱しています。
また、哲学者だけではなく、科学者の中にも、理論物理学者スティーヴン・ホーキング氏のように「人間の脳はコンピュータであり、そのコンピュータが壊れた場合、すなわち死の後に、天国も地獄も無い。」と死後生を認めない学者ももちろんいます。
死後生があるか否かという問いに対する、「客観的な正解」は、科学的な検証ができない以上は、答えがないと言わざるを得ないものと思います。
死後生は、そんな確認のしようがないものだけれども、しかし人それぞれが納得できる死生観を探し出しそれを心に抱き、それにより心が平穏になるであればそれが望ましいのではないかと思われます。
死後生は、そんな確認のしようがないものだけれども、しかし人それぞれが納得できる死生観を探し出しそれを心に抱き、それにより心が平穏になるであればそれが望ましいのではないかと思われます。
参考文献)
(『カントの最高善における道徳性と幸福』 藤田昇吾著 大阪教育大学紀要 1986年)
(『ゲーテに於ける自然と歴史』 三木清著)
『人は死んだらどうなるのか?』 斉藤弘子著 言視舎 2015年
『新版 死とどう向き合うか』アルフォンス・デーケン著 NHK出版 第5刷 2015年
行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一
行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一
(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)
大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属
対応可能地域-大阪府中部・北部:寝屋川市・門真市・守口市・大東市・四條畷市(四条畷市)・東大阪市・大阪市・枚方市・交野市(これ以外の地域も対応可能な場合があります。ご相談くださいませ。)
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