日本人になじみが深い仏教哲学的な、死生観をみてみたいと思います。

 まずは、その前提となる仏教の要の論理である「空」について考えてみます。

 なお、本稿は、社会学者小室直樹氏(1932-2010)や、花園大学教授佐々木閑氏などの、現代宗教学としての仏教学や、宗教社会学的な学説を参考にしたものに基づくものであることをあらかじめお断りしておきます。

 仏教及び宗教学としての仏教学は、非常に多くの宗派や学派があり、思想的にまことに多様で、各宗派や各学説によって死生観や空等の概念の捉え方も様々で、下記に述べるような死生観等が唯一の捉え方ではなく、あくまでも宗教社会学的な学説に基づく、たくさんある見解の中の一つであるということもあらかじめご了承頂ければと存じます。

 なお、下記に、伝統仏教各宗派の死生観や、その他スピリチュアルな死生観に関する詳細な研究報告が掲載されていますので、それらの点について、ご興味ある場合は下記をご参考頂ければと存じます。

http://www.circam.jp/reports/02/ (研究員レポート 宗教情報センター研究員藤山みどり氏著)

 例えば、パソコンの自作を考えてみます。

 パソコンを自作する場合、まず、パソコンショップにいって、マザーボードやメモリー、ハード・ディスク、ケーブル、コンセント、キーボード、ディスプレイなどの部品を買ってきます。

 この段階で、パソコンがそこに「ある」といえるでしょうか?

 普通に考えれば、部品があるだけでパソコンがあるとはいえないことでしょう。(空の状態)

 しかし、部品を組み立てると、パソコンとなり、パソコンはそこに「ある」ということになります。

 また、部品をバラせば、ただの部品に逆戻りということになります。結局、パソコンはそこにあるのでしょうか?

 部品を使って、組み立てればあるし、解体すればないということになります。

 つまり、「組み立てる」という因縁

(この場合の「因」は、組みたてようとする人間の意志、「縁」は、各種の部品を指します。)

によって、「あり」もするし、「ない」ともいえます。

 空は、確かに無ではあるのですが、

「因縁」によってパソコンという「有」を生みだすことができる

(空即是色・色とは「形あるもの」という理解でよいかと思います。)

ということになります。

 また、パソコンという実在は、解体すれば、また部品に戻り「無」となります。(色即是空)

 無でもなければ有でもない、無でもあるし、有でもある、

組み立てるという因縁を介在すれば、有にでも無にでもなるというのが、

空論であり、空論においては、全ての実在するかのごとくに見えるものは、このような空であるとします。

(という理解を、私はしております。)

 よって、「全ては、空であると認識する人間の識」

(「『意識』・『未那識(まなしき)』・『阿頼耶識(あらやしき)』」、

ユング心理学の用語に置き換えると、「『意識』・『個人的無意識』・『集合的無意識』」のようなものと仮にしておきたいと思います。

なお、ユング心理学については、拙稿、http://terminalsupport.blog.jp/archives/1585284.html をご参考頂ければと存じます。)

以外に実在は、ないとなるわけです。

 このように実在するものは、「識」以外にないにもかかわらず、

(ただ、この「識」も現象でしかなく、実体はなく「空」であり、夢、幻のようなものであり、究極的には、その存在も「空」とのことです。)

 実在すると思うがごとくの妄想をするために苦悩が生じ、煩悩が生じるので、この妄想を取り払えば、静寂を得られるということになります。

 なお、上記の阿頼耶識は、肉体が滅した後も残り、輪廻(六道輪廻)するとされています。

 しかし、阿頼耶識は、種子(人間の行為の痕跡)が蓄積する(これを薫習(くんじゅう)という)ことにより、

常に変化する(つまり無常)ので、唯一の実在である阿頼耶識もまた無常であり、常なるものは何も無いということになります。

(阿頼耶識もあくまでも種子により、変化するので永遠不変なものは何もないということになるからです。)

 ただ、阿頼耶識は、肉体が滅した後も残るものですから、あらゆるもののうち、最も「常(不変)」に近いということになります。

 よって、不変に近いものがあるがゆえに、人はこれを不変であると感じ、これを我と思い込むわけですが、この我に執着する心を未那識といいます。

 阿頼耶識・未那識はともに、顕在意識の下にある「無意識」といっていいものですが、阿頼耶識は、この未那識よりもさらに深いところにあるもので、まさに深層心理的な部分ということになるかと思います。

(なお、阿頼耶識のさらに奥に、けがれが無い無垢識・清浄識、あるいは真如である真我、如来蔵、心王である「阿摩羅識(あまらしき)」があるとする考え(天台宗等)、さらに奥に、「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」があるとする考え(真言宗)もあります。)

 ですので、諸行無常、諸法無我であることを知るには、深く深層心理にまで降りて行くというような修行(瞑想等)が必要になってくるということになるようです。

 なお、阿頼耶識に蓄積される種子は、生まれてこのかたのものから、生まれる前のずっと前のものも全て蓄積されており、もっといえば、この世界のはじめの原意識的なものまでが蓄積されているとされています。

 深層心理学者のユングの学説では、無意識を、「個人的無意識」と「集合的無意識」とに分けるのですが、「未那識」は、「個人的無意識」、「阿頼耶識」は、「集合的無意識」に似ているところがあるように思えます。

 唯識思想は、瑜伽行という瞑想的方法によって、心のあり方を変化させ、悟りに到達しようとすることが特徴のひとつといわれています。

 そして、その悟りの行く先が、六道輪廻から離れた、涅槃(ニルヴァーナ)寂静の境地ということになります。

 この境地に至ると、もう苦しみ多き六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)には、二度と帰ってこないとのことです。

 輪廻とは、宇宙には異なる複数の有情(六道の生命あるもの全て。)の世界があり、生きとし生けるものは、そのいずれかを繰り返し転生していくという考え方です。

 なお、前述いたしました「因縁」の、「因」とは、ものごとに変化をもたらす、「主要因」のことをいいます。

 「縁」は、「補助要因」です。
 
 そして、これらが相互連関(中観派の解釈:中観派の解釈では線型連関とはみない)し、全ての現象が作られるということになります。

 もし、パソコンに意思があれば、

「自分は、独立固定的な存在である」と、思っているかもしれないのですが、

実は、そうではなく、因縁によって

(つまり、因縁に因っているわけですから、独立して何かができる存在ではないということになります)

 あるときは、パソコンになっている状態、あるときはバラバラな部品の状態、あるいは仕掛品的な状態にすぎない、もともと独自固有・固定性のない「無我」「無自」「無常」であるということです。

 そうであるのに、

「自分は独立固定的な存在である」

とパソコンが思って妄想し、そこに執着すると、その執着は誤りであるということになります。

 そもそも、当のパソコンは、独立固定的な存在ではないわけですから、執着すべき原因(独自固有・固定性)がもともとないわけです。

 えてして、独自固有・固定性(そんなものはもともとはないですが)に執着すると、それが種子となり、

阿頼耶識に蓄積され、苦

(認識が真理からずれますので苦しむということになります。希望と現実が違うと悩みますね。そういうことだと思います。)

という結果を生むわけですが、

よく考えると、独自固有・固定性はなく、よって執着するものもなく、したがって本来は苦もないということになるわけです。

 擬人化されたパソコンがもし、独自固有・固定性に執着し苦しんでいる

(ずっと今の新品パソコンのままでいたいとか錆びたくないとか、古くなりたくないとかで悩んでいる。)

としたならば、

「自分は、単に因縁により、あるときはパソコン、あるときは、バラバラな部品、あるときは、仕掛品状態にあるだけの無常・無自・無我である。」

と心底気付き、それを体感できれば、悩む必要性もそもそもないということになります。

 このような、哲学的で難解な空論的な論理に比べ、

原始仏教は、もう少し素朴だったものと考えられていますが、諸行無常等をより精緻に説明するために、

後世の人達(とりわけ龍樹(りゅうじゅ:ナーガールジュナ))が、深い瞑想をしたうえで心の動きをとらえ、それを体系化・理論化して記述したのが空観(空論)です。

 空観をまとめあげたものが、龍樹著の『中論』で、龍樹を祖とする一派を、中観派といいます。
 
 中観派は、大乗仏教の教理を知的追求した一派で、学究者でもあったといえましょう。

 ですので、空論は、学問的といってもよく、その上より深く体感するためには、瞑想等の修行も必要になってくるため一層、庶民には理解困難となります。

 そのため、仏教伝来から今日まで、このような精緻な仏教論理等が庶民に正確に理解された時期はなかったのではないかと考えられています。

 とりわけ仏教伝来時には、詳細な翻訳書などもなく、全てテキストは漢語で書かれていたわけですから、文字の読み書きができなかった人が多かった当時、仏教論理を理解していたのは貴族等の一部の知識人だけということになります。

(ちなみに、当時の僧は国家公務員でした。)

 庶民に、仏教が浸透するのは、伝来から相当後の鎌倉時代ということになります。

 鎌倉仏教、とりわけ、阿弥陀信仰は、空論のような難解な論理を漢語で書かれたテキストで知ったり、特殊な瞑想法等を実践する必要性はありませんでした。

 阿弥陀信仰は、阿弥陀仏がいる仏国土(これを極楽浄土といいます。浄土とは、清浄で清涼な仏の世界。)に転生(輪廻の一種ですが、これを往生といいます。)すれば、次の段階にて解脱し成仏できるというものです。

 つまり、もう一度だけ、極楽というところに転生し、輪廻の中にいなければならないが、しかし、その次はもう輪廻しませんよ、という論理です。

 では、極楽往生するためにはどうすればいいのかですが、当初は、1.やはり修行する(六波羅蜜という修行)2.仏塔を信仰する3.念仏を唱えるの3つのことをしなければならないとされていました。

 が、後の阿弥陀信仰経典においては、3.だけ残り、つまり念仏さえ唱えていれば、極楽往生できるという形に変形されました。

 原始仏教は、現象及び心を冷静にまた科学的ともいえる態度で観察し、現象システムと心のシステムの関係を理詰めで明らかにしました。

 そして、自身の力で、苦の原因である煩悩を滅し、それを乗り越えて行こうという提案を行ったものだと思われますが、大乗仏教は、それさえも「空」、「幻想」だとします。

 そして、現象及び心のシステムの奥の院の奥の院は、理詰めで明らかにして知ることができない「神秘」だとし、本当の法則は、超越的な神秘であり、人智では計り知れない、それが「空」だとしています。

 ゆえに、大乗仏教経典「般若心経」等においては、神秘もみとめよう、祈ってみようというスタイルをとり、般若心経も、祈りの言葉、聖なる呪文である真言(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶)で締めくくっています。

 このような論理から、大乗仏教には、真言や念仏等を重視し、それにより救われるという思想があるものと思われます。

 ただ、法然(浄土宗開祖)は、念仏を唱えるということは、修行だと考えていたようです。

 しかし、これを修行だと考えると、何万回唱えないと往生できない等ということにもなってきて、色々とノルマが出てきたりもします。

 対して、親鸞(浄土真宗開祖)は、念仏は修行ではないし、そもそも唱える必要もない。

 南無阿弥陀仏と心の中で願うだけでよく、阿弥陀仏と心の波長を合わせ、阿弥陀仏の主体性にまかせれば往生できるし、そうすることの方が正しい(絶対他力)とします。

 また、仏教では、基本的に解脱するためには、自身の努力で修行をしなければならない(自力本願)のに対して、

(ゆえに、解脱できる人とできない人という差が生じる。)

浄土真宗においては、阿弥陀仏の主体性により救済が決まるということですから、阿弥陀仏の前では皆平等、もちろん、悪人も善人も平等(悪人正機説)という論理となります。 

 いずれにしても、南無阿弥陀仏と心の中で念じればそれだけで救済される、しかも、悪人も善人も関係なく救済されるという仏教等

(阿弥陀信仰とともに、法華経を信仰する宗派も鎌倉期に現れ、こちらも空論や唯識論のような庶民には難解と思われるような理論を必要とするものではなかったため庶民に受け入れられていったものと考えられています。)

が登場するに至って、初めて庶民の中に、仏教信仰というものが根付くことになったといわれています。

 ちなみに、密教(真言宗)は、修行をするから仏陀(完全な悟りを開いた聖者)となるではなく、仏陀であるから修行ができる、すなわちもともとありとあらゆるものは仏陀であり、それを確信するだけでよしとします。

 金剛頂教によると、真言(マントラ)を唱え、心の中に仏があると念じ、手で印を結ぶことによって、この身このまま成仏する(即身成仏)とされています。

 空海が日本にもたらした真言密教は、仏教の最終進化形だったわけですが、ヒンドゥー教の要素も取り入れた神秘主義的な面もあり、加持祈祷により現世利益を叶えるという側面もあったため、貴族を中心に日本に広まりました。

 また、空海が全国で慈善事業を行い、庶民の心を掴んだこともあって、弘法大師信仰も生んだのですが、やはり、教義そのものが非常に難しいことと、密教というぐらいですから、その真髄は、師から弟子に秘密裡に伝播されるという性質があり、真の意味や技法が庶民に広まるということはなかったといえることでしょう。

 なお、本場インドの仏教は、密教がさらにヒンドゥー教化され、見分けがつかなくなった為と、イスラム勢力のインド侵入により、僧達が、周辺の東南アジアに逃避したため、12世紀頃に消滅するという憂き目にあいます。

 ただ、最近はインドでもまた、諸事情より仏教の勢力が広まってきているようです。

参考文献)『日本人のための宗教原論』 小室直樹著 徳間書店 2003年
『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 ちくま文庫 2006年
『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』 佐々木閑著 NHK出版 2014年

行政書士・マンション管理士・1級建設業経理事務士 佐々木 賢 一

(商工会議所認定 ビジネス法務エグゼクティブ(R)・日心連心理学検定(R)特1級認定者(第16号)・日商簿記検定1級認定者・FP)

大阪府行政書士会所属(会員番号4055)・大阪府行政書士会枚方支部所属

Blog:http://sasakihoumukaikei.blog.jp/(大阪・寝屋川:佐々木行政書士・マンション管理士事務所ブログ)
 
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